KILIAN
グッド ガール ゴーン バッド


D’s SCORE(7.0 / 7.0)
よい娘の心に、
蛇がささやいた。

よい娘が、悪い娘になった。
いったい、何があったのだろう。
キリアンには、香りを嗅ぐ前から物語を始めてしまう香水がある。
グッド ガール ゴーン バッド。

香水愛好家たちが、その頭文字を取って「GGGB」と呼ぶ一本。名前だけを聞けば、清純な少女が何かの誘惑に負け、道を踏み外してしまったようにも思える。けれど、その香りにあるのは、背徳や妖しさとは少し違う、不思議な美しさだ。
かつて香水界のロールスロイスとも称されたキリアン。その贅沢な香水たちの中でも、GGGBはとりわけ罪つくりな一本だ。
白地に金色の蛇をあしらった、ドキリとするようなクラッチケース。中に収まる白いボトルは、宝石のように煌めく。クラシカルな香水の装飾美学を現代に蘇らせる、創設者キリアン・ヘネシーの美意識が、この小さなボトルに凝縮されている。
そして、ケースに絡みつく金色の蛇。その姿も、やがて別の意味を帯びてくる。
GGGBは、2012年に発表された「In the Garden of Good and Evil(善と悪の園)」コレクションの一本。調香師はアルベルト・モリヤス。エデンの園を思わせる世界で、無垢な少女が誘惑に身を委ねてゆく姿を、花々の香りで描いている。
では、善と悪をめぐる物語に、どんな香りが与えられたのか。
GGGBをプッシュする。
その瞬間、空気が変わり、甘くまろやかなフルーティー香に包まれる。
わずかな酸味を帯びた、水蜜桃の香り。
熟した桃の果肉に、そっと歯を立てた瞬間。透明な果汁が舌にあふれ、甘い蜜とほのかな酸味が広がってゆく。そんな錯覚を覚えるほど、自然で豊かな果実感だ。
この桃は、どこから来るのか。
香水データベースのFragranticaでは、トップにピーチも挙げられている。さらに、この果実感を豊かにしているのが、オスマンサスだ。日本ではキンモクセイとして親しまれている花。アプリコットを思わせるその甘酸っぱい表情が、ふくよかな花の甘さに寄り添いながら、熟れた桃のような香りを生み出している。
花の香りなのに、まるで果実を味わっているような感覚。しかも、いちばん美味しく熟した瞬間が、香りの中に閉じ込められているようだ。
5分ほど経つと、完熟した桃のようなしっとりした香りに、わずかにクリーミーな白い花のヴェールがかかってくる。
チュベローズだ。
ふっくらとした白い花弁に、温かなクリームを忍ばせたような柔らかさ。その甘さが果実の輪郭を包み、桃の瑞々しさに花の肌触りが重なってゆく。
ここが、GGGBのなんとも美しいところだ。
果実から花へと移り変わる、その境目が驚くほど滑らか。
トップの果実香にチュベローズのふくよかさが寄り添い、ジャスミンの華やかさ、軽やかなローズもやがて加わってゆく。どの花も声高に主張せず、薄い花弁を幾枚も重ねたように、柔らかな甘さの中で溶け合ってゆく。
「Good Girl Gone Bad」という刺激的な名前から、もっと濃密で官能的な香りを想像していたなら、きっと拍子抜けするだろう。ここに咲いているのは、驚くほど可憐で、無邪気な花々なのだから。
やがて、桃の甘さは少しずつ薄れ、淡いフローラルが肌に残る。
ラストにはシダーやアンバー、サンダルウッドもノートとして挙げられているが、自分には木の気配はほとんど感じられない。最初に出会った果実と花々が、夕暮れの光の中でゆっくりと色を失ってゆく。
美しく静かなフェードアウト。
つけてから3時間ほどで、果実の甘さは穏やかな花の余韻へ。
フローラルの香水でありながら、第一印象はたわわに実った果実。花々が咲きそろったあとも、最初の甘い記憶がどこかに残っているような展開だ。
こんなにも柔らかく、無垢な香りが、なぜ「ゴーン バッド」という名前を負ったのだろう。
答えは、香りの入口で出会う極上のフルーティーにあるのかもしれない。
もし、こんなに甘くとろけそうな果実が目の前にあったなら。きっと誰もが顔を近づけ、一口だけでも味わってみたいと願うだろう。
けれど、その果実が、決して食べてはいけないものだったとしたら。
はるか昔、エデンの園を想う。
赤い実をつけた一本の木がある。その下では、長い赤褐色の髪を背中に流したイヴが、頭上の果実を見上げている。
枝に絡みつく金色の蛇が、何かを囁きかける。イヴはその言葉に耳を傾けながら、ゆっくりと手を伸ばす。指先の向こうで輝く赤い果実。その瑞々しい甘さを想像するだけで、胸が高鳴る。少し離れた木陰には、黒髪のアダム。彼もまた、イヴの指先をじっと見つめていた。
禁断の果実。イヴの指先が届こうとした瞬間、楽園にはそれまで知らなかった感情が芽生えようとしていた。
その名は、欲望。
旧約聖書によれば、蛇にそそのかされたイヴは禁じられた果実を食べ、アダムにも与えた。そして二人は、楽園を追われる。
ならば、イヴはなぜ禁忌を破ってしまったのだろう。赤い果実が、あまりにも美味しそうだったからだろうか。
もしもGGGBの香りがする果実が実っていたなら、イヴがその甘さに心を奪われたのも無理はない。
よい娘が、悪い娘になった。
本当に、そうなのだろうか。
きっと彼女の中には、最初からもうひとりの娘が眠っていた。禁じられた果実の香りに目を覚まし、彼女の心にそっと囁きかける。
そしてイヴは、自らの意志でその果実を選んだ。
欲望の美しさも、心がよろめく陶酔も知っている、もうひとりの娘。
その正体は、彼女の心に棲む、もう一匹の黒い蛇だったのかもしれない。
そして、その黒い蛇は今も眠っている。

あなたの心の奥底に。

7.0 / 7.0
KILIAN
GOOD GIRL GONE BAD
グッド ガール ゴーン バッド
Eau de Parfum
オードパルファム
2012
フローラル・フルーティー
In the Garden of Good and Evil
善と悪の園
The Narcotics
ザ・ナルコティクス
オレンジブロッサム、オスマンサス、チュベローズ
オスマンサス、ピーチ、ネロリ、ベルガモット、マンダリン、シナモン
チュベローズ、ジャスミン、ナルシス、メイローズ
アンバー、シダー、サンダルウッド、ベチバー、パチョリ
Alberto Morillas
アルベルト・モリヤス

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