KILIAN
ウーマン イン ゴールド


D’s SCORE(5.6 / 7.0)
金箔の下に眠る、
女の闇。

その女性は17歳年上の実業家と結婚し、何不自由ない生活の中、それでも常に憂鬱な顔で煙草をくゆらせていたという。
夫人同士のお茶会には興味を示さず、芸術家や政治家を招いて夜ごとパーティーを繰り広げ、彼らのパトロンとしてウィーンの社交界に君臨していた。

彼女の名はアデーレ・ブロッホ=バウアー。
19世紀末から20世紀初頭にかけてのウィーン社交界で、自由奔放に振る舞ったとされるサロンの女王。そして、今なおその名が語り継がれているのは、美術史に燦然と輝くウィーン分離派の巨匠、グスタフ・クリムトの有名な絵画「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I」のモデルであったことによる。
画面いっぱいに散りばめられた金箔。幾何学模様と複雑な装飾技法で埋め尽くされた黄金のカンバス。その中心で、アデーレは色白の顔にどこか物憂い表情を浮かべ、こちらを見つめている。
金箔を貼り尽くした豪奢な絵なのに、どこか緊迫している。
まるで金色の中に閉じ込められた女王のようだ。
そして2017年。この黄金の肖像画に魅せられた一人の男が、絵画を香りで表現しようとした。
キリアン・ヘネシーである。
2007年に誕生した香水ブランド、キリアン。その創立10周年を記念して発表された特別なコレクションが「From Dusk Till Dawn」だった。
黄昏から夜明けまで。
そこに用意されたのは、二つの黄金の香水。一つは「ゴールドナイト」。クリムトの大作「ベートーヴェン・フリーズ」に描かれた黄金の騎士に着想を得た、ハニーとパチョリが織りなす暗く官能的な香り。そしてもう一つが、この「ウーマンインゴールド」。アデーレの肖像に着想を得た、クールなシプレフローラルの香りだ。
キリアンがクリムトの黄金時代に見いだしたのは、金色の装飾が放つまばゆい輝きと、その奥に潜む深い陰影だった。光と影、熱と冷たさ、外へ向かう意志と、内に沈む気配。それは、人の中にひそむ二面性にも通じている。彼は絵画に使われた金、黒、白という色彩を、香料によって表現しようと考えたという。
金箔に匂いがあるとしたら、どんな香りがするのだろう。
なんともキリアンらしい発想だ。
同じ金でありながら、それぞれに異なる表情を持つ二つの作品。ブランド10周年という節目に、キリアンは香水という目に見えないキャンバスに、クリムトの黄金世界を描こうとしたのだろう。
ウーマンインゴールドを手がけたのは、ディオールの「ジャドール」でも知られる女性調香師、カリス・ベッカー。
この作品を語るうえで外せないのが、瀟洒なボトルを収めたラグジュアリーなコフレボックスだ。重厚な箱には、クリムトの代表作「接吻」で男女の身体を覆う幾何学模様を思わせる装飾が施されている。まるで一つの美術作品を収める額縁のような作りだ。
目に見えない香りを、目に見える芸術に仕立てる。これもまた、キリアンの美学なのだと思う。
では、中身の香りはどうかというと。
きらめくゴールドのメタリックキャップを外してスプレーする。すぐに感じられるのは、冷たくキラキラした透明感のある香りだ。
ベルガモットとマンダリンの明るいシトラス。その上からアルデヒドが高く立ち上がり、香り全体をまばゆく輝かせる。金色の粉を一斉に空中へ散らしたような、冷たく冴えたトップ。
その下から、アニスのような清涼感がスーッと広がってくる。柑橘の爽快さとは質感の異なる、低音の冷たい響き。クレジットにアニスの名は見当たらないが、どこかハーブを思わせる涼やかな感触がある。
目の前に浮かぶのは、涼やかな眼差しの奥に怜悧な光をたたえた色白の女性。そう、あの黄金の肖像画のアデーレだ。
5分ほど経つと、トップのキラキラした高音が少しずつ薄らぎ、柔らかな甘みが表出してくる。クリーミーなヴァニラの衣に包まれた薔薇の花びら。ほんのり甘く、淡く、それでいて確かな存在感を持つローズ。
朝露に濡れて開き始めた薔薇が、黄金色の光を浴びて、そっと秘めた香りを漂わせるかのように。
このローズが美しい。金色の粉を散らした淡い薔薇だ。ゼラニウムの青みを帯びた花の気配も重なり、甘さの中にかすかな冷たさが残る。
ヴァニラが加わるにつれ、香りは少しずつ肌の温度に近づいてゆく。トンカビーンのクマリンを思わせる、どこか桜餅にも似た甘さ。ふんわりしたヴァニラの柔らかさ。それらがアルデヒドの輝きを優しく丸めながら、金色の光に温もりを与えてゆく。
一方、香りの低いところにはウッディでスパイシーな陰影が漂っている。
ベースに名を連ねるアキガラウッドは、ジボダン社がパチョリ由来の成分から開発した香料で、ウッディ、スパイシー、そしてわずかにウードを思わせる複雑な表情を持つ。トップで感じたアニス様の清涼感が、この素材によるものかどうかは分からない。
パチョリ特有の土っぽさや湿った暗さは控えめで、ローズとヴァニラの柔らかな甘みを、低い位置から静かに支えている。明るい花の香りの下に、冷たく乾いた木の気配。その陰影が、ウーマンインゴールドに独特の気高さを与えているように思える。
光を受けてきらめく金箔。その下に潜む、黒い絵具。
クリムトの黄金があれほど強い輝きを放つのは、金色の装飾の間に黒や白、青や赤を巧みに配し、画面に深い陰影を与えているからだろう。眩しいほどの金箔の中に暗い色彩が息づき、互いの存在を際立たせている。
ウーマンインゴールドの香りも、それに似ている。アルデヒドのまばゆさを、ローズとヴァニラが柔らかく受け止める。そしてその下に、冷たくスパイシーな木の香りが静かな影を落とす。
実際に肌で感じるウーマンインゴールドは、意外なほど軽やかで透明感がある。高くきらめくアルデヒド、淡い花の甘さ、そして肌の奥に残る涼やかな陰影。どこか近寄りがたい、ノーブルな美しさが漂う。
金色なのに冷たい。華やかなのに物憂い。
その不思議な二面性が、アデーレの肖像と重なってくる。
そんな彼女は、クリムトに二度も肖像画を描かれている。
クリムトは生涯結婚せず、多くの女性たちをモデルに描き続けた画家だった。クールビューティーなアデーレもまた、彼の前では一人の女性だったのかもしれない。
そして、この黄金の肖像画を見ていると、どうしても気になるものがある。
アデーレの眼差しだ。
顔とデコルテ以外の全身を、金箔と幾何学模様で埋め尽くされた一人の女性。その衣装には、エジプト美術の影響をうかがわせる目のような紋様がいくつも描かれている。
無数の目に囲まれながら、彼女自身は何を見つめていたのだろう。富か。名声か。それとも、目の前で渾身の力を込めて自分を描く、ただ一人の男の心だったのだろうか。
アデーレとクリムト、二人の間に何があったのか。その真相は、きらびやかな金箔の下、黒い闇の中に眠っている。
ウーマンインゴールドをまとって再びこの絵の前に立つと、あの物憂い表情に、香りの記憶が重なってくる。
金箔のまばゆさは、アルデヒドの光。淡いローズは、白い肌に秘められた柔らかさ。そしてウッディな冷たい陰影は、微笑みを浮かべながらも、どこか悲しげなあの眼差し。
絵画と香りが、ゆっくりと一つになってゆく。
黄昏の黄金をまとったゴールドナイトが、鎧を輝かせながら暮れゆく世界に立つ頃、黄金の女は長い夜を過ごしている。
From Dusk Till Dawn。
黄昏から夜明けまで。
やがて、ウィーンの街並みに朝の光が差し始める。
白いカーテンをそっと開いた一人の女性が、窓辺に立っている。腰に巻いた絹の布には、金色の幾何学模様。白い首筋から肩、背中へと朝日が滑り落ち、肌の輪郭が金色に輝き始める。
彼女は少しだけ顔を上げ、まばゆい太陽を見つめている。昨夜までの憂鬱を、その胸に抱いたまま。
黄金は今、絵画の中から解き放たれ、一人の女性の素肌を照らしている。
ウーマンインゴールド。
光がまばゆいほど、影は深くなる。

金色の闇を心に抱いたまま、女は夜明けの黄金になる。

D’S SCORE
5.6 / 7.0
KILIAN
WOMAN IN GOLD
From Dusk Till Dawn
The Narcotics
2017
フローラル・シプレ
ベルガモット、マンダリン、アルデヒド
ローズ、フリージア、ゼラニウム、ヴァニラ・アブソリュート
パチョリ、アキガラウッド、トンカビーン、ヴァニラ
カリス・ベッカー

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