カルバン・クライン
エスケープ・フォー・メン


D’s SCORE(4.5 / 7.0)
脱出という名の欲望。
その逡巡。

その男が自動ドアから外の風を連れてホテルのロビーに入ってきたとき、井山は一瞬、異質な雰囲気を感じ取った。東北の小さな温泉宿のフロントマンにしては、井山は何かそういったカンのはたらく男だ。
井山は、ヨレたグレーのコートを羽織った男に「いらっしゃいませ」と会釈をしながら、にこやかに相好を崩したまま、すばやく相手の様子をうかがった。

中折れ帽の下には、太い黒縁のメガネ。あごから鼻の下まで、ごまを散らしたような白い毛のまじった無精ひげ。への字に結んだ気むずかしそうな唇はうすく、冷徹な印象を与えている。
男は一寸も井山と視線をかわすことなく、すっと手に持っていた千円札をフロントのカウンターごしに差し出してきた。
「入浴でございますか?」
黙ってこくりとうなずいた男の表情をそっと探りながら、井山はさもうれしそうに笑って言った。
「かしこまりました。それでは、こちらがロッカーキーになります。お帰りの際にお返しください。800円になります」
カウンター下の小銭受けから釣りの200円を取って、ロッカーキーとともに渡そうとしたときだ。
釣りを受け取ろうと差し出された男の体から、ツンとした清涼感のある香りが漂ってきた。
「……!」
キーを無造作に受け取って歩き始めた男の背中を目のはしで追いながら、井山は右手の指を鼻にもっていった。まるで男の体から漂ってきた香りを確かめるかのように。
しかし、それは特に意味のある仕草ではなかった。なぜなら、井山はその香りに覚えがあったからだ。もう10年以上も昔、高校を卒業してすぐ東京へ出て、大手スーパーの化粧品フロアを担当していた頃、何度もかいだことのある香りだった。
『……エスケープ・フォー・メン……だな』
井山はカウンター下にあるロッカーキーボックスを見るともなく見つめながら、さきほど漂ってきた香りにとらわれていた。
カルバン・クラインのエスケープ・フォー・メン。
みずみずしい瓜のような甘さの奥から、冷たい空気がすっと差し込む。そこにユーカリを思わせる鋭い清涼感と、乾いたスパイスの気配が重なっていく。
それは、香料のひとつひとつを思い出したというより、東京にいた頃の空気そのものを、一瞬にして連れ戻すような香りだった。
慣れない都会生活。きつい仕事。
何もかも投げ出して、どこかへ逃げたい――。
そんなことを何度も考えていた若い頃の自分と、「ESCAPE」という名の香りは、井山の中で妙に強く結びついていた。
だがしかし……と、札をレジに押し込みながら井山は思う。
『香り、じゃない……』
違和感の正体は、もっと別のところにある。
あの男が入ってきたときに一瞬こちらに向けた鋭い視線。あのとき俺が感じたものは、いったい……。
「……あ!」
不意に井山の目が見開かれる。カウンター内側に貼られた一枚のポスターに、目が吸い寄せられた。
『……!』
そのポスターには、警察から定期的に回ってくる、全国指名手配の容疑者の写真が並んでいた。右側から二番目の男の顔。髪の長さと頬のこけ具合、ひげのあるなしの違いはあっても、先ほど風を連れてこのホテルへ入ってきた男の顔と、ぴたりと重なった。
井山はぐっと奥歯をかみしめた。
さっきの男……そうだ。
あれは、この写真の男――『岩田』にまちがいない。
強盗殺人容疑で全国指名手配されている男。
その男が今、東北のはずれ、小さな海沿いにあるこの温泉ホテルにいる。
カウンターでうつむいたまま身じろぎもせずにいる井山の様子をいぶかしんだのか、もう一人の若いフロントマンが、その背中に声をかけた。井山は努めて明るく応対したつもりだった。だが、眉間には深いしわが寄り、唇は厳しく結ばれたままだった。
どうする……?
警察に連絡すべきだろうか?
するとしたらどこへ?
地元の派出所でいいのか、それとも……。
井山は逡巡した。
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期待はしていなかった。しかし、していなかっただけに、この小さな温泉宿の露天風呂から眺める日本海の姿は、いっそう強く、岩田のくぼんだ両眼の奥に刻まれた。
『……こんな、こんなにも青々としている……』
空の青が、紺碧の海の銀色の反射を映し、さらに太陽によって漂白されてまばゆかった。
季節はずれの海沿いの温泉には、客がまばらだ。晩秋ともなると、温泉といえども、山の方へ紅葉と湯けむり情緒を求める者が多いだろう。そうふんだのは間違いではなかったようだ。
岩田は、ところどころ黒くなった腕を湯船の中でさすりながら、久しぶりに体から毒のようなものが出て行く感じを味わっていた。知らず、くぐもったうなるような声が口からもれた。
逃げ続ける日々は、日雇いの肉体労働の苛酷さと相まって、より一層、岩田の顔に深い溝のようなしわをいくつも刻んでいた。各地の日雇いの町を転々として、少し金をためてはカプセルホテルで過ごし、ときに大きな公園でホームレスの集団のはしくれに数えてもらいながら、この7年、誰とも深く交わることなく生きてきた。そう、ついこの前までは。
ゲホゲホと変な咳と痰のからみが止まらず、時折高熱に見舞われるようになったのは、2か月前のことだ。体はやせおとろえ、明らかに何か大病に見舞われたという実感が、日に日に明確になっていく。
岩田は働くことさえままならなくなった。そしてついに、どうするというあてもなく、生まれ故郷のある東北の小さな町へ足を向けた。今、その道すがら、なぜか海が見たくなって、駅からバスを乗り継ぎ、この小さな温泉宿に足を入れたところだ。
『……こんな自然の中で、終わるのもいいかもしれない……』
病は人を変える。どこまでも逃げ続けるつもりでいた岩田も、もう、何かがどうでもいいように思え始めていた。警察の冷たい牢で眠る方が、誰かの通報を恐れて顔を隠しながら生きていくより、よっぽど安らかに眠れそうな気さえしていた。
七年ものあいだ逃げてきた男にとって、逃げることは、もはや自由ではなかった。
逃げれば逃げるほど、見えない壁が少しずつ内側へせり出してきて、気がつけば、自分の居場所はどんどん狭くなり、息苦しさが増していくように感じられた。
……どうする……?
もう、ここで終わりにして出頭すべきか……?
しかし、ここで出頭して俺はどうなる?
それとも、まだ行けるところまでエスケイプし続けるべきなのか……?
岩田は逡巡した。
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ロビーの向こう、巨大な窓の彼方には、日本海の青々とした海がねそべって、秋の陽光に銀色の波光を揺らしている。井山は、先ほどから鼻を何度も手でつまみながら、せわしくそのロビーの彼方を気にしていた。もう少したったら、あの角から、男湯ののれんを揺らして、岩田が出てくるはずだ。
彼をそのまま見過ごしていいのか?
そもそも、本当にあの男は岩田なのか?
先ほど男の体から漂ってきた香りと、一瞬眼があったときの横顔は、稲妻のような明確な光をもって、彼に確信を与えていた。が、しかし逡巡するうちに井山は、本当にあの一瞬の顔が指名手配の男だったのかどうか、全く自信がもてなくなってしまっていた。
……どうする?
もう少しであの男はまた、このホテルの玄関を出て行くだろう。あいつは本当に指名手配の男なのか?俺は……俺は一体どうすべきなんだ……?このまま見過ごせば、それはそれで何も変わらない。このホテルの日常も、風景も。
しかし、俺が警察に連絡したらどうなるんだ?
このホテルに警察が来て、いろんなことを調べるだろう。
本当にそうなっていいのか……?
わからない……。
井山は、服の上から何かに引っ張られるような、うわずった痛みを胸のあたりに抱えながら、苦し紛れに一つの考えにたどり着いた。それは、ふだんなら、こっけいな判断と自ら一蹴するような質のものだったが、もはや考えている余裕はなかった。
井山は、カウンター内に設置してある電話を見下ろしながら、ぐっと唇を真横に結んだ。
……あの男がキーをよこす。
その刹那、また、エスケープ・フォー・メンの香りがしたら――
俺は、警察に電話を入れよう。
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縦長の細いロッカーから、着古したシャツを取り出し、着替えたばかりの下着の上にはおる。ポーチから小さなアトマイザーを取り出し、そこで岩田はふと手を止める。
今日、ここを出たところで、また街へ戻っても、しょせんあてのない身。このまま泊まってしまおうか。あのフロントの男のやけににやにやした顔を見れば、部屋が空いているのはわかる。それとも……。
もう本当にここで終わりにしようか……。いっそのこと、宿泊に切り替えた上で、部屋から電話して警察を呼んでもらおうか……?
帰りに乗る乗り物がバスか、それともパトカーか。違いなんてそれだけのことだ。そして、どちらにしても、もう今の俺にはどうでもいい。俺はもう……疲れた。
しかしながら、岩田は決めかねた。小さなアトマイザーを手にしたまま、しばらく動かなかった。
『ESCAPE』という文字が、なぜか今日はひどく皮肉に見えた。
逃げるための香りなのか。
逃げることをやめるための香りなのか。
そんなことは、この香水自身にもわからないのだろう。
ロッカードアをバタンと閉めてカギを手にしたまま、岩田は、「男湯」と書かれた青いのれんに向かってゆっくりと歩き始めた。
そうだ、もう俺は疲れた。自分で決めるのはもううんざりだ。……だったら……、さっきのフロントの男を見て決めよう。もしも、あのフロントの男が、さっきと同じようににこやかに笑って俺に対応したら、宿泊できるかたずねよう。そして、あの男がいなかったり、俺に目線も合わせないような適当な対応だったら、そのときは自動ドアを出て、また旅を続けよう……。
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青いのれんをすっとくぐって、土産コーナーの角を曲がり、一人の男がキーを片手にカウンターへ歩いていく。それに気付いたフロントの男が、顔を上げずにすっと姿勢をただす。
コートをわきに抱えたやせぎすの男は、カウンターの前に立って、ゆっくりとカギをフロントの男に差し出す。フロントの男はその手を見つめたまま、静かにカギを受け取る。
ロビーの巨大な窓の向こうで、日本海が白く光った。
自動ドアの向こうには、夕方へ傾きはじめた秋の空。
カウンターの上には一本のロッカーキー。
そのわずかな距離を隔てて、二人の男が向き合っている。
その一瞬。井山は全神経を鼻に集中させて、男の体から漂う香りの気配を感じようとした。
その一瞬。岩田は全神経を目に集中させて、男が自分に笑顔を向けるかどうかを見守った。

井山は嗅いだ。岩田は見つめた。

FRAGRANCE DATA
BRAND / FRAGRANCE
CALVIN KLEIN
ESCAPE for men
ORIGINAL CREATION
1993
PERFUMER
Steve DeMercado
TYPE
Aromatic Green
TOP NOTES
メロン
グレープフルーツ
マンゴー
ユーカリ
ジュニパー
ベルガモット
MIDDLE NOTES
サイプレス
モミ
ローズマリー
セージ
バーチ
マリンノート
BASE NOTES
オークモス
ベチバー
サンダルウッド
パチョリ
アンバー

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