グッチ
ブルーム


D’s SCORE(5.2/7.0)
狂おしい夜の入口で
白い花が咲き乱れる

オープンエアのロビーから、部屋へと続く長い回廊の向こうに、エメラルドブルーの海が見渡せた。その手前、広大な中庭に、南国の花々が咲き乱れていた。
荘厳なゴングが打ち鳴らされ、新たな客がホテルに到着したことを告げると、バリ・ヒンドゥーの祭りの正装をした従業員たちが、一斉にこちらを向いてにこやかに微笑みかけた。

その中から、ひときわ背の高い青年が歩み出てくる。ニッコリ笑って私の手からスーツケースを受け取ると、軽やかな足取りで前を歩き始めた。
その笑顔に、一瞬ドキリとする。浅黒い顔に、まぶしいほどの真っ白な歯。それはまるで、ココヤシを割ったときにのぞく白い果肉のように、ワイルドでスイートな印象を受ける。日本の女性が現地の男とのラブロマンスを求めて大勢バリ島へやって来るという話も、何となくわかるような気がした。身体の奥の、普段は意識しない柔らかな場所を、熱帯の風にそっと撫でられたような感覚に少したじろぐ。
私は、前を歩くすらりとした青年の黒光りするうなじに吐息を漏らしそうになりながらも、つとめて冷静を装い、サングラスを指で押し上げた。
神々の島、バリ。 ついにここまで来た。
悠長な遊び気分の旅じゃない。あの日、私を捨てた彼ともう一度再会するための、そして過去と決着をつけるための旅だった。
案内された部屋のドアを開けると、壁一面を切り取った大きな窓の向こうに、熱帯特有のジャングルの緑が広がっていた。ざわざわと大きな葉を風に揺らすヤシの木。こんもりとした木々。その間を色とりどりの長い尾をつけた鳥が飛び回っている。そして庭園の向こうから、ゴーゴーと響いてくる波の音。
白い壁とブラウンチークのフローリングで仕切られたゆったりした室内には、アンティークの家具とキングサイズのベッドが置かれ、落ち着いた雰囲気を漂わせている。
青年はスーツケースを置き、振り返った。
「Anything else?」
「No. Thank you.」
そう答えると、彼は一度ドアへ向かいかけた。けれど、ふっと何かに気づいたように立ち止まり、少し照れたように鼻先へ指をやった。
「アナタ、トテモ ステキナ カオリガ シマス。ナンデスカ?」
思いがけない日本語に、私は思わず笑った。
「グッチのブルームよ。日本語、お上手ね。」
「ドモ。アリガトウゴザイマス。」
青年は嬉しそうに笑った。そして一瞬だけ間を置いてから、
「モシ ヨカッタラ、タノシイ トコロ、アンナイシマスヨ。」
「あら。」
私はサングラスを外し、まっすぐ彼を見た。
「毎回そんなふうに女の客を誘うのね?」
青年は答えなかった。ただ、真っ白な歯を見せて笑う。それから胸の前で両手を合わせ、少しだけいたずらっぽい目を残したまま一礼して、部屋を出ていった。
ドアが静かに閉まる。私はしばらく、そのドアを見ていた。
――グッチ ブルーム。
今朝、ホテルへ向かう前につけた香りが、まだ肌の上に残っている。
Bloom。咲く。咲き誇る。
ジャスミン、チュベローズ、そしてラングーンクリーパー。整然と束ねられた花束というより、湿った庭で葉も蔓も花も好き勝手に伸び、むせ返るほど咲き乱れているような花々の香り。それが、この島には妙に似合う。
手首を鼻元へ近づけてみる。トップで出ていたジャスミンの青い輪郭が、そろそろほどけ始めていた。まだ開ききらない蕾。折ったばかりの茎。濡れた葉。そんな青々しい匂いの向こうから、もっと白く、もっと濃い花がゆっくりと顔を出し始めている。
壁一面の大きなガラス窓の向こうには、テーブルと籐のチェアが置かれた広いテラス。その先に、熱帯の濃い緑が広がっていた。窓を少し開けると、湿気を含んだ生温かな風が入り込み、カーテンを揺らす。葉と土。名も知らない南国の花。そして肌の上で開き始めたブルーム。それらが混沌とした空気になり、部屋の中に流れた。
私はバッグから一枚のメモを取り出し、受話器を耳にあてた。安っぽいおもちゃのようなコールが何度か響いたあと、懐かしい声が耳に届く。
「Hello, this is T’s board shop. May I help you?」
「……元気そうね。……私。」
「……えっ?」
「あなたにとっては、とっくに忘れた女でしょうけど。ここまで来たわ。バリまで。」
「……もしかして、ミユ?」
「あら。よく覚えてたわね。そう。あなたに振られた女。」
「振ったなんて、そんな……。僕はただサーフィンを選んだだけだよ。」
「そうね。私よりバリ島の波をね。」
「……今、どこなの?」
「ヌサドゥアのGHホテルよ。今しがた着いたばかり。」
「……まさか。君が来るとは思わなかったな。休み取って来たのかい?」
「いいえ。会社を辞めてきたの。」
「えっ? ほんとに?」
「そうよ。サーフィンのために女も捨ててバリ島に行った男のことが忘れられずに、会社まで辞めてきたわ。もちろん会ってくれるんでしょうね?」
「……その 今日はちょっと都合が悪いんだ。明日だったら……。」
「だめよ。今日じゃなきゃ。」
「でも何日かいるんだろ? それに君だって今日は着いたばかりで疲れてるだろうし…。休んだ方がいいよ。」
「なら、あなたの腕の中で休むわ。」
「そんなこと急に言われても…。」
「あら。婚約までしておいて、急にバリ島へ行ってしまった人が言える台詞かしら?」
「それは……。」
「とにかく今日中に来て。部屋は3023ね。じゃあ。」
返事を待たず、受話器をフックにカチャリと押しつけた。
淡いグリーンのベッドカバーの上に身体を横たえる。天井では、木製のシーリングファンがゆっくり回っている。アップにしていた髪をほどくと、長い髪がベッドに散らばった。
彼はどんな顔をして現れるだろう。一度捨てた女を、この部屋でどんな目で見るのだろう。
そんなことを考えると、なぜか笑えた。バカバカしくて笑えた。結婚の約束までしておきながら、プロのサーファーになるという夢を捨てきれず、私を置いて遠い南の島へ逃げた男。その男を追いかけて、結局、会社を辞め、何もかも放り出してバリ島まで来てしまった自分。
それがおかしくてたまらなかった。笑いながら、涙が出そうになった。
まだ二人が恋人同士だった頃、彼が言った言葉がふと脳裏をよぎる。
「サーフィンを極めようと思うなら、やっぱバリだよ。バリではさ、海には悪魔が住んでいて、山には神様が住んでるって考えられてる。あそこは神と悪魔が共存してる世界なんだ。神様が大事にされるように、悪魔もまた大事にされているんだ。」
善と悪。右と左。この世には必ず対極する二つのものが存在し、それは誰の心の中にもある。だから世界は成り立っている。バリ島は、それを知っている。彼はいつもそう言っていた。
愛したい気持ちと、傷つけ返したい気持ち。誰かに抱きしめてほしい自分と、誰にも支配されたくない自分。どちらか片方だけが、本当の自分というわけではない。今、咲かせたいつぼみは、一体どちらなのか。
ふと、手首を鼻元へ近づける。
香りは妖しいミドルになっていた。ジャスミンの青い気配は後ろへ退き、奥からチュベローズが大きく花開いている。白い花なのに、ひどく濃い。乳白色の花びら。クリーミーな甘さ。ブルームは、次第に肌へまとわりつくような、なまめかしい花の匂いへと膨らんでいく。
いや、変わったのではない。最初からそこにいた花が、この島の熱に煽られて、少しずつ開いてきたのだ。
窓の外でも、巨大な葉がざわめいている。蔓が絡み、花が開き、熟れた果実が落ち、湿った土の中からまた新しい芽が伸びる。ここでは、誰も何も遠慮しない。誰にも許可を求めない。ただ、命を生きる。ただ、咲く。
私は黒いキャミソールの肩紐を外した。下着をわざとベッド脇に脱ぎ散らかした。汗ばんだ肌に、冷房と南国の湿気が入り交じった空気が触れる。生まれたままの姿でベッドにうつ伏せになり、彼がどんな顔をしてこの部屋へ入ってくるのか、もう一度目を閉じて想像してみる。
けれど目を閉じた瞬間に浮かんだのは、彼の顔ではなかった。
さっきスーツケースを運んでくれた青年。浅黒い肌。人懐っこい笑顔。黒光りするうなじ。
そして あの声。
唇から短い吐息が漏れた。もしあの青年がもう一度この部屋へ来たら、私を見てどんな顔をするだろう。さっきと同じように、何も答えず笑うのだろうか。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが小さく弾けた。これは彼への復讐なのか。それとも、ただ自分の中に眠っていた欲望なのか。
もう、どちらでもいいような気がした。
私は電話へ手を伸ばし、コンシェルジュに、さきほど荷物を運んでくれた青年を、夕方、部屋へよこしてほしいと英語で告げた。
電話を切ったとき、ベッドサイドのテーブルにフルーツバスケットが置かれていることに気づいた。見たこともない奇妙な形をした南国の果実。赤、黒、黄色。硬い皮。棘。その内側に、甘い果肉を隠している。
部屋の熱気の中で、果物たちは今にも崩れそうなほど熟れた匂いを放っていた。私はそのひとつを手に取る。指先に移った果実の匂いと、肌の上のチュベローズが入り混じる。花も、果実も、この島では熟すことをためらわない。
その瞬間、ふと思った。
本当は男が理由じゃない。私は、自分の中の悪魔を認めてあげるために、ここまで来たのかもしれない。嫉妬。怒り。欲望。寂しさ。それが全部、肯定するために。
夕方。
いつの間にか、熱帯の太陽は大きく傾いていた。部屋の白い壁が、ゆっくりと赤く染まっていく。肌に残るブルームも、青々しさを失い、ずいぶん柔らかくなっていた。チュベローズの濃密さの奥に、かすかなパウダリーさが重なる。窓の外では、昼の緑が少しずつ黒い影へ変わり始めていた。
コンコン。
部屋に、ドアをノックする音が響いた。
窓から吹き込んだ湿った風が、カーテンを大きく膨らませる。肌にはまだ、ブルームの肉感的な匂いが残っていた。甘く、青く、そして濃密に。私はベッドから身体を起こし、床に落ちていた薄い布を拾って肌にまとわせた。裸足のまま、ゆっくりドアへ向かう。
ドアの前で立ち止まり、ノブへ手を伸ばす。
どちらの男が来たのかは、よくわかっていた。
私はゆっくりとロックを外し、ドアノブを回した。

遠く、スーベニアセンターの方から聞こえてくるガムランの音だけが、ただ狂おしい島の夜の始まりを告げていた。

5.2 / 7.0
GUCCI BLOOM EAU DE PARFUM
グッチ ブルーム オードパルファム
2017
フローラル / ホワイトフローラル
ジャスミン
チュベローズ
ラングーンクリーパー
アルベルト・モリヤス

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