ディオール
ジャドール EDP


D’s SCORE(6.7/7.0)
振り返れば
金色の残り香

ジャドールEDP。この香りに心惹かれたのは、もうずっと昔のことだ。
山奥にある、秘境と呼ぶにふさわしい温泉宿へ出かけたことがある。送迎車が進む道は、車一台がようやく通れるほど細かった。片側は切り立った山肌、もう片側は深い谷。木々は次第に鬱蒼と重なり、クマや鹿が突然目の前へ現れても少しも不思議ではないような場所だった。

進めば進むほど、ワゴンの車内が狭くなるような感覚になっていったのを覚えている。その時間、送迎車の中で客は自分ひとりだった。本当に、この先に宿などあるのだろうか。そう思い始めたころ、不意に視界がぱっと開けた。
谷間を流れる川。日の当たる河原。その岸辺に、黒塀をめぐらせた瀟洒な和風の館がひっそりと立っていた。人里から遠く離れた、まさに山中の隠れ宿の風合いが感じられた。
館内にも、都会のホテルのような明るさはない。迎えてくれたのは、木の匂い。川のせせらぎ。そして温泉の湿った空気。夜になれば周囲は深い闇に沈み、廊下を照らすのは、ところどころに置かれた柔らかなランプの灯りだけだった。
狭いながら調度が整った部屋で、しばし渓谷の風情を楽しんでから、浴場へ向かった。
途中、その暗い渡り廊下で、一人の女性とすれ違った。白紺の浴衣姿だったと思う。
顔立ちも、髪型も、もう細かなところまでは覚えていない。
けれど、その人が横を通り過ぎた瞬間、ふわりと美しい花の香りがした。
透明で、華やかで、とろりと甘い。木の香でも温泉の匂いでもない。
まるで白い花びらの上に、金色の粉を薄く振りかけたような、きらめく香り。
思わず足をとめた。振り返った。
女性はそのまま、薄暗い廊下の向こうへ消えていった。ほんの一瞬のことだった。
けれど、その残香だけが、妙に心に強く残った。
それが、自分とジャドールの運命的な出会いだった。
ディオールのジャドール。このオードパルファム(EDP)は1999年に誕生して以来、ディオールを代表する香水のひとつとして長く愛されてきた名香だ。調香師は、この作品の大ヒットで香水史にその名を刻んだカリス・ベッカー。
ジャドールといえばまず目を奪われるのは、やはり特徴的なボトル。なめらかな曲線を描くアンフォラ型のボディ。
その細い首を幾重にも取り巻く金色の装飾。そして頂点には、水滴のように透き通った丸いキャップ。
華やかで、グラマラス。それでいて、どこか古代の器を思わせる気品もある。
まるで「金色」という概念そのものを、女性の身体へ変えてしまったような造形だ。
だが、香りもまた、そのイメージにひけをとらない。
ジャドールをスプレーする。その瞬間に広がるのは、とてもみずみずしいフルーティーな香り。洋梨と桃を思わせる、酸味の少ない柔らかな果汁だ。それは熟した果実の透明な雫。シアーで、明るく、つややかに前奏を奏でる。
ほどなく、その瑞々しさの奥から、白い花々が大輪の花をひらいてくる。ジャスミン、イランイラン、そして濃密なホワイトフローラル。
それはあまりに見事な調和をもった理想的な「花」なれど、中心にいるのはジャスミンだと思う。
甘く豊かな花の香りの中に、わずかにスパイシーな鋭さが走る。そこへイランイランの丸み、ローズを思わせる涼しさが重なり、ひとつの大きな花の奇跡的な香気をつくってゆく。
けれど。これほど花々が濃密に香るのに重くない。シアーなのにクリーミー。清楚なのに官能的。
華やかなのに、どこか慎ましい。
相反するものが、ひとつの場所で拮抗している。
それは、深山の木陰でひっそり咲く白い花と、幽谷の水の清らかさ。けれど、その花びら一枚一枚には、見えない金箔が貼られているかのように明滅する。その美しさが人を酔わせる。
この華やかなホワイトフローラルのミドルは、想像以上に長く残る。人によっては、8~10時間も。
時間が経つにつれて、花々の複雑な輪郭は少しずつ柔らかくなり、やがて温かなフローラルムスクになる。
最後には、清潔な石鹸を思わせる穏やかな残香となって消えてゆく。
ひと嗅ぎすれば、ジャドールだとわかる金色の香り。それほど強い個性を持ちながら、決して奇抜にはならない。
華やかでありながら、しっとりとたたずんでいる。それこそが、この香水が持つ絶妙なバランスなのだと思う。
今もジャドールを嗅ぐと、あの緑深い山奥の隠れ宿を思い出す。黒い木の廊下。遠くに聞こえる川の音。薄暗い灯り。そして、自分の横を一瞬だけ通り過ぎていった、浴衣姿の女性。
いったいあの香りは何だったのだろう。
あの日、温泉から上がって体を拭いているとき、そんなことをずっと考えていた。
脱衣所は決して広くなかった。豪華なホテルのパウダールームなどではない。横長の鏡とドレッサー、湯上がりの身支度を整えるためだけの、簡素な空間だった。
そしてその鏡台の上に、不釣り合いな「それ」は置かれていた。
ディオール ジャドール。金色の雫の形をした美しいボトル。
こんな山奥の秘湯にディオール?ジャドール?香水が置いてある・・・
一瞬、目を疑った。そして思った。なんと粋な計らいだろう。
ほんの少し試してみた。スプレーした瞬間、洋梨を思わせる透明な果実の香りがした。その奥から、白く豊かな花々が次々に花がひらいてくる。その瞬間知った。
「あ。」
さっきの女性の香りだ。
廊下ですれ違ったとき、自分のそばを一瞬だけ通り抜けた、あの花の香り。記憶の中に残っていた香りの引き波と、いま立ち上がったジャドールが、ぴたりと重なった。
思わず、長のれんから首を出して、浴場の外へ続く廊下の方を見た。もちろん、もう女性の姿はない。それでもしばらく、自分は暗い渡り廊下の向こうに、あの香りの余韻を探していた。
木の匂い。川の音。湯上がりの湿った空気。薄暗い灯り。その中に、まだほんの少しだけ、金色の花の残り香が漂っているような気がした。
ジャドールは、とてもグラマラスな香水だ。けれど、豪華なドレスや煌びやかな場所だけが似合う香りではない。
白い浴衣。濡れてアップした髪。山奥の温泉宿。そんな静かな場所でも、この香りは驚くほど美しくセンシュアルだった。
いや。
あまりにも似つかわしくない場所だったからこそ、あれほど鮮烈だったのかもしれない。
清らかで、官能的。華やかで、慎ましい。透明なのに、心に爪痕を残す。
そんな矛盾を、ひとつの香りの中に成立させる黄金のバランス。
それがジャドール。
あれから、ずいぶん長い時間が過ぎた。秘湯の宿の風景も、女性のことも、少しずつ記憶の奥へ沈んでいる。
それでもジャドールを嗅ぐと、今でもときどき、あの山奥の暗い廊下を振り返る。
金色の香りを残して消えていった、女性の後ろ姿を探すように。
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あのジャドールの香り、今はいずこ。


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