ディオール
ヒプノティック プワゾン


D’s SCORE(7.0 / 7.0)
催眠の名を持つ、
白い罠

朝の光が満ちる白い部屋。大理石のテーブルに、赤黒い林檎のようなボトルがひとつ置かれている。白いレースの袖から伸びた指先が、黒いキャップへ近づいていく。まだ、この手は何も知らない。
赤黒い林檎のようなボトル。その栓を外し、ひと吹きした瞬間、空気の色だけが変わる。それは白いもや。冷たい粉砂糖のような。その薄暗い部屋に舞い上がった白い粉のような香りが、静かに自分の意識を攪拌してくる。

ヒプノティックプワゾン。この香りを嗅いだ人は、その魅力にとり憑かれて偏愛するか、あるいは全力で嫌悪感を露わにするかのどちらかだという。まさに、毒にも薬にもなりうる妙薬。心のどこかでワーニングベルが鳴り響く。
Fight or Flight? 足を踏み入れるのか、逃げるのか?
この香りは、理性の奥に潜む本能に、常にそう問いかける。
ヒプノティックプワゾンは、80年代にディオールを復活させた香りの立役者とも言うべき、プワゾン(1985)のシリーズ3作目にあたるオードトワレ。プワゾンの大ヒットを受け、ディオールはその後シリーズを加えていった。2作目にあたるタンドゥル(1994・現在廃版)を経て、調香師アニック・メナルドを起用し、1998年に生まれ落ちた、催眠の系譜。
以来、この香水はオリジナルのプワゾンに並ぶほどの存在感を獲得し、発売から四半世紀以上を経た今なお、世界中の女性を虜にしている。この間、香りは何度かリファインされたが、残念ながら発売当時の香りとはかなり変わってしまった。このレビューは、現在店頭で販売されているヒプノティックプワゾンではない。1998年、アニック・メナルドが生み出した最初期の香りだ。いわば、ザ・ファースト。自分が最も偏愛している香りの1つでもある。
ヒプノティック・プワゾンとは、「催眠毒」という意味だ。
その名だけで、再び世界中にプワゾンの中毒者を増やそうという意図すら感じさせる危険な名前。
だが、この毒は黒くない。ザ・ファーストヒプノの色は、むしろ白だ。
杏仁霜。アーモンドパウダー。まだ固まりきらない杏仁豆腐。そこへココナッツミルクを少し落とし、ヴァニラを溶かしたような、白く、粉っぽく、どこか粘りのある甘さ。
ザ・ファーストの香料を調べると、トップにココナッツ、プラム、アプリコット。ハートにジャスミン、チュベローズ、ローズウッド、キャラウェイ。ベースにヴァニラ、アーモンド、サンダルウッド、ムスクなどが挙げられている。だが肌にのせると、それらが順番に現れるというより、最初から白い靄のように奇妙にとけ合っている。
スプレー直後、まず鼻をとらえるのは、杏仁を思わせる甘苦いアーモンドの気配だ。
そこへココナッツの乳白色の丸みが重なる。果実の甘酸っぱさは確かにあるものの、それは白いクリームの奥からわずかに透けて見える程度。
むしろチェリーコークやドクターペッパーを思わせるような、ベンズアルデヒドを思わせる薬品的なニュアンスもある。けれど、それすら黒い炭酸飲料ではなく、杏仁豆腐の白さの中に落とした一滴の毒のように感じられる。
そして、妙に粉っぽい。
さらさらではない。少し湿った粉。指先で触れれば、うっすら肌にまとわりつきそうな粉。海外のヴィンテージ評で「almond flour」「Play-Doh」と表現されるのもよくわかる。この“妖しい粉感”こそ、初代ヒプノティックプワゾンの重要な個性だと思う。
数分すると、香りはさらに丸くなる。
ジャスミンやチュベローズの白花が輪郭を与えるが、花束として華やかに咲くわけではない。白い花弁まで、アーモンドミルクの中へ沈んでしまったように、狂おしくとけている。
キャラウェイの少し冷たいスパイス感、ローズウッドやサンダルウッドの乾いた木質感もある。しかし、それらは主役ではない。ここは、後期のヒプノティックとの違いを強く感じるところだ。
後年のヒプノでは、自分にはスパイスや乾いたウッディの輪郭がもう少しはっきり感じられる。だがザ・ファーストは、もっとまろやかで、もっと白い。そして何より、白い粉毒の気配に満ちている。それは杏仁パウダーをなめた時のような、少し薬品っぽい中毒性。
そして時間が経つほど、じわじわとヴァニラが姿を現してくる。
だがそれはケーキの上の砂糖菓子のようなヴァニラではない。ミルクの膜のようなヴァニラ。アーモンドの苦みを抱えたまま、肌の熱でゆっくり溶けていくメルティなヴァニラ。Basenotesでは、この香りを「velvety bittersweet vanilla-almond」と評した記述があるが、まさにその質感。
苦いのに甘い。甘いのに、どこか薬品的。そして柔らかいのに、逃げ場がない。
そこが怖い。
プワゾンがどこか蠱惑的な媚薬の暗さをもっているとしたら、ヒプノティックは少し違う。
暗がりへ誘惑されるタイプの毒ではない。
白い部屋へ通され、柔らかな椅子に座らされ、甘い飲み物を差し出される。気づけば瞼が重くなり、もう立ち上がる理由さえ失っている。自分でも気づかぬうちに侵されているタイプの毒だ。
作り笑顔。社交辞令。上司や同僚、周囲の知人への必要以上の気遣い。
なんかそんなもの全部取り払って、勝手気まま、わがままに過ごしたい。そんなとき、ザ・ファーストヒプノが静かに嗤う。
香水を肌にひと吹きすることは、日常という鎧を脱ぎ捨てる儀式でもある。ヒプノティックこそ儀式という言葉が似あう香りだ。これは、日常で逆立ち、いつの間にか針のようにとがりまくった神経を落ち着かせてくれるような香りだ。
ただそれは「元気をくれる」という種類の癒やしではない。
むしろ神経の先端を一本ずつ麻痺させていく。どうでもいい。もう考えなくていい。いっそ、すべてから逃げてしまえばいい。そんな暗示を、白い粉のような香りが静かに繰り返している。
そして、いつの間にか景色が変わっている。
朝の光は消え、あれほど白かった部屋は深い赤と黒に沈んでいる。同じテーブル。同じ位置。同じように伸びていく、一本の腕。
けれど、白かった服は漆黒に。金色の刺繍が闇の中で鈍く光り、指先には長く伸びた黒の爪。
ボトルが置かれていた場所には、赤黒い林檎がひとつ。上半分には、あの香りを思わせる白い粉がうっすらと降り積もっている。
部屋には赤い蝋燭がいくつも灯っている。炎は風もないのに、わずかに身をよじる。ひとつ。ふたつ。三つ。数えようとすると、またひとつ増えたような気がする。
そして青白い手を林檎へと伸ばす。
あの明るい部屋で香水を手に取ったときと同じように。
白いアーモンド。ココナッツ。ジャスミン。ヴァニラ。甘いはずなのに、安心してはいけない気がする。どこか遠いところでwarning bellが鳴り響いている。でももう、それすらどうでもいい。甘美な夢を魅せてくれるなら。
催眠とは、眠らせることではない。それは意識の表面を静かにし、その奥へ降りていくこと。
赤い炎の向こうで、現実と暗示の境界がゆっくり溶けていく。そのはざまに香るのは、温かなヴァニラと、冷たい杏仁の白い粉。
ヒプノティック・プワゾン。
とろけるような、白い毒。甘さで誘い、粉のようにまとわりつき、気づかぬうちに意識を侵食して沈んでいく。
最初に手を伸ばしたのは、自分だった。
けれど――その手を動かしているのは、もう自分かどうかさえわからない。
白い毒は、眠らせない。目覚めたまま、あなたを夢の側へ連れていく。

それは白日夢か。悪夢か。

7.0 / 7.0
ディオール|ヒプノティック プワゾン
1998
オリエンタル・ヴァニラ
ココナッツ、プラム、アプリコット
ブラジリアンローズウッド、ジャスミン、
チュベローズ、キャラウェイ、ローズ、スズラン
ヴァニラ、アーモンド、サンダルウッド、ムスク
アニック・メナルド

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