エラ ケイ
ハロン湾の雨


D’s score (5.2/ 7.0)
その雨は
空と海をつなぐ

雨が降っている。
ハロン湾に雨が降っている。
ブルーグレイの霧をかき混ぜるように、深い緑の海へ雨が降っている。
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三階建ての豪華なクルーザーは、霧の海を静かに滑っていく。時折、海に突き刺さった巨大な黒い墓標のように、石灰岩の巨峰や奇岩が、ぬっと霧の彼方に姿を現す。
エラ・ケイの「ハロン湾の雨」は、その名のとおり、雨の情景が似合う香水だ。
調香師ソニア・コンスタンが、世界を旅する中で出会った土地や記憶を、自らの感覚で香りに変えるフレグランスブランド、エラ・ケイ。旅先の情景を、透明感のある繊細な香調によって描き出すこと。それが、このブランドの初期作品群を貫く美学なのだと思う。
2018年に発売された「ハロン湾の雨」は、ベトナムの広大な海と、そこから突き出す無数の石灰岩の島々が織りなす、壮大な景観をモチーフにした香りだ。公式には、海、霧、そしてモンスーンの温かな雨――水が見せるさまざまな姿へのオマージュとされている。
そんなハロン湾に降る雨とは、いったいどのような香りなのだろう。
薄くスクエアなボトルから、金色のキャップを外す。このメタルゴールドのキャップが手のひらに伝える、確かな重量とひやりとした冷たさ。それだけで、いつも心が浮き立つ。美しい香りを身につけるという、誰にも明かさない秘めごとのような行為。そこへ静かな期待を添える重さ。
グレイグリーンのジュースをスプレーする。
最初にふんわりと香るのは、洋梨を思わせる、甘くフルーティーな香りだ。公式に記載されているのは、みずみずしい梨の一種であるナシペアー、ルバーブ、ピンクペッパー。自分の肌では青リンゴのような青さや、ライチを思わせるウォータリーな甘さも重なって感じられる。
みずみずしく、とてもジューシー。しっとりとしていて、体から余計な力が抜けていくような、優しく柔らかなトップだ。海や雨というよりも、一流ホテルのスイートルームに置かれたフルーツ皿。冷えた果実の表面に、細かな水滴が浮かんでいる。そんな豊潤さ。酸味は強くない。果汁をたっぷりと含んだ果肉の甘さに、ルバーブとピンクペッパーが、ごく細い緑の輪郭と、かすかな刺激を添えている。こうした穏やかなフルーティーノートを好む人には、たまらないトップだと思う。
やがて五分ほどすると、わずかな甘酸っぱさの向こうから、ロータスやウォータージャスミンの、アクアティックでグリーンな風合いが現れる。フルーツの奥に、いつの間にか広大な水面が開けている。透明感があり、穏やかで、すっきりとしたウォータリーノート。ロータスの淡い青緑。水辺に咲く花の湿り気。その下から、ウォータージャスミンやマグノリア、ローズが、水面の下に隠された白い花影のような、柔らかな厚みを与えている。
涼しげで、フェミニン。しかし、ただか弱いだけではない。香りの変化は穏やかだが、トップから続くフルーティーなみずみずしさと、水生花の透明感、白い花々の柔らかさが、濁ることなく一つの水彩画へ溶け合っていく。このバランスが、素晴らしいと思う。
果実のみずみずしさ。ハスや水辺の花がもつ、グリーンでアクアティックな湿度。そして、ウォータージャスミン、マグノリア、ローズが描く、淡くフェミニンな花の気配。それぞれが主張しすぎることなく、一点で静かに交わっている。心までしっとりと潤っていくような、優しいミドル。そんな香りが、雨脚を変えずに降り続く細雨のように、長く肌の上に残る。
ラストも大きく姿を変えない。花と果実の輪郭が少しずつ淡くなり、その奥からムスク、アンブロフィックス、アキガラウッドの、静かで清潔な余韻が現れる。白い霧が水面へ降り、やがて海そのものに溶けていくようなドライダウン。自分の肌では、つけてから四~五時間ほどで穏やかに終息する。
まとめるなら。
ナシペアーを中心とした、みずみずしいフルーティーノート。ロータスやウォータージャスミンの、アクアティックでグリーンな気配。さらにマグノリアとローズの柔らかなフローラルが一点で交わり、湿度を含んだ、涼やかなフローラル・アクアティックのアコードを形づくっている。
海というよりも、澄みわたった巨大な湖面。
確かにハロン湾は、無数の石灰岩の島や奇峰が複雑に連なり、場所によっては外海というよりも、山々に囲まれた静かな湖のように見える。
霧の中では、現実の風景というより、墨と水だけで描かれた一幅の山水画。
それもそのはず、と思う。
ハロン湾の「ハロン」は、ベトナム語で「降臨する竜」を意味する。この土地には、国を外敵から守るため、天から竜の一族が遣わされたという伝説が残されている。
竜たちが吐き出した宝玉や翡翠は、海へ落ちて無数の島や岩山へと変わり、敵の船を阻む巨大な壁になったという。戦いが終わった後も竜たちはこの地に残り、母なる竜が降り立った場所が、ハロンと呼ばれるようになった。
歴史的事実ではなく、この土地に伝えられてきた神話。けれど、そんな伝承さえ信じたくなるほど、ハロン湾の景観は圧倒的だ。
見渡す限り続く、石灰岩の絶壁。水の底から隆起した竜の背のような、黒々とした奇峰。それらは今も、この美しい海を守る海洋神のごとく、霧の中に雄々しくそびえ立っている。
そのハロン湾に、雨が降る。
辺りはブルーグレイの霧にかすみ、幾千もの島々は、その輪郭を灰色の空へ溶かしていく。霧は、天空から竜が舞い降りる予兆のように、世界を神秘の色で染めていく。やがて雨そのものが、竜の気配に思えてくる。
空と海の境界を覆い隠し、島々を外の世界から遠ざける雨。海へ降り注ぐ来訪神のように、ひそやかに大地を潤し、人々の願いを包み込んでいく。
だから。
雨の日になると、このフルーティーでアクアティックな香りを、ふと確かめたくなる。そして、遥か異国の海を思う。
今日、ハロン湾にも雨が降っているだろうか。
霧の中に佇む、水墨画のような黒い島々のシルエット。その間を、音もなく進んでいく一艘の船。
外は雨。
灰色の空を眺めながら、「ハロン湾の雨」を身にまとう。次第に、心がしっとりと潤っていく。遠くベトナムの海から運ばれてきた、果実と花と、透明な水の記憶。それが静かに、心の奥を満たしていく。
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今日も、ハロン湾に雨が降っている。

YEAR
2018
FRAGRANCE FAMILY
FLORAL AQUATIC
TOP NOTES
ナシペアー/ルバーブ/ピンクペッパー
HEART NOTES
ロータス/マグノリア/ローズ/ウォータージャスミン
BASE NOTES
ムスク/アンブロフィックス/アキガラウッド
PERFUMER
SONIA CONSTANT

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