ジル スチュアート
ヴァニラ ラスト


D’s SCORE(4.6/7.0)
甘い香りを手に残し
人はもう一度歩き出す

少年は一人ぼっちだった。
たった一度、女の子の気持ちを裏切ってしまった。その後、その子が手首を切ったと聞いた。少年は、それを自分のせいだと思いこんだ。
友だちと思っていた周りの連中はみな、一瞬で彼の視界から消えた。
少年の前で大声で笑うことがなくなり、少年のいないところで、小声でささやくようになった。少年はたった16歳で、本当に一人ぼっちだった。
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そんなある日、国道わきの道端に捨てられていた箱の中から子猫を拾った。
子猫は小さな身体をぷるぷると震わせていた。砂が入ったのか、汚い目やにだらけの灰色に濁った目を見開いて、無心に少年の手をさぐった。ミャウミャウと泣き続けながら。
少年はイラついた。そいつを放り捨てた無責任な飼い主に。その必死な子猫の姿に。そして、そんな子猫を抱きしめてしまった自分の弱さに。
そしてしばらく考えて立ち上がった。少年はキャットミルクを買いに行った。
近くにあった崩れかけた小屋へ箱を運んで、100円ショップで買った入れ物にミルクをといてなめさせてみた。子猫は体を震わせてなめようとはしなかった。だから少年は一生懸命子猫を抱きしめ、自分の手にミルクをすくってなめさせてみた。
不意にざらついた舌が、少年の手の平をなめた。
そのとき、少年の心の中に、くすぐったくて温かいものがかすかに広がった。
手の平には、キャットミルクの甘い匂いが残っていた。砂糖を焦がしたキャラメル。柔らかなプラリネ。溶けかけたココナッツミルク。どこかで嗅いだことのある甘さだった。けれど少年は、それが何の記憶なのかを考えようとはしなかった。
少年は、日が暮れるまで、両手でいつまでも子猫の小さな身体を抱きしめていた。
毎日学校帰りに、少年は自転車を風のように走らせて、子猫を置いた廃屋の小屋へ向かった。ミルクは相変わらずなめる程度だったが、少年の手に身体をすりつけて喜んでいるように思えた。
7日間、少年の手にはいつも同じ甘い匂いが残った。けれど、その香りは少しずつ変わった。最初の濃い甘さがほどけると、奥から、白い花びらを風に透かしたような香りが立ち上がった。ジャスミン、フリージア、ティアレ。まだ青さを残した桃と、指先でつぶれた木苺のような、淡くみずみずしい気配。それは小屋の周りに広がる花の香かもしれなかった。その香りと一緒に、少年の中で固く閉じていた何かも、少しずつひらき始めていた。
青い空には、白い雲が大きく流れていた。夏空の下で、名もない黄色い花が国道わきの小さな草地に咲き乱れていた。
少年は草地に寝そべって、おそるおそる歩こうとする子猫を見つめた。
子猫の目の高さから見た世界は、一面の緑と、黄色い花と、そしてどこまでも広がる青い空の3色しかなかった。なれあいも裏切りも不安も嫉妬も憎しみもない、そこはただ生きていくため、歩いていくための苛酷なステージのように思えた。
そのとき、不意にヴァニラの香りが鼻をかすめた気がした。ミルクの粉が手に残っていたのか。そして不意に、あの女の子がつけていたジルスチュアートのヴァニラ・ラストの香りと重なった。
最初に香るのは、いつも無邪気なほど甘い香りだった。けれど彼女が髪をかき上げ、ふと顔をそむけたとき、その奥から花の香りがほどけていた。甘くやわらかく、けれど触れたら壊れてしまいそうな香り。
恥ずかしそうに髪をおさえて笑った彼女の横顔、自分に背中を向けて震えていた白いうなじ……。それらが一瞬、目の前にフラッシュバックして、少年は思わず頭をおさえた。
彼女はなぜ、あの甘い香りが好きだったんだろう。自分を大人びて見せたかったのか?誰かに愛されたかったのか?それとも、誰にも見せられない不安を、ヴァニラの甘さの奥に隠していたのか?少年は、彼女の笑顔だけを見ていた。けれど、その奥で震えていたものを見ようとはしなかった。
きつく目を閉じて、奥歯をかんだ。少年は、黄色い花にじゃれついていた子猫を抱き上げ、両手でぎゅっと抱きしめた。
少年が一人ぼっちでなくなってから、7日がたっていた。
その日。
廃屋に向かう途中で、いつものように自転車をとばしていた少年は、国道わきで2人の女子高生とすれちがった。その子たちは、彼を見たとたん、一瞬ぎょっとしたふうで、互いにカオを見合わせた。見覚えのある制服だった。あの子が着ていた女子高の制服。
すれちがった風の中に、甘い香りはなかった。それなのに少年の鼻の奥で、あの日のヴァニラの香りが突然よみがえった。笑っていた彼女と、背中を向けて震えていた彼女。そのふたつが、ひとつの香りの中で離れなくなった。
ミルクを入れたレジ袋が、自転車のバスケットの中で、いつもよりガサガサと揺れていやな音を立てた。
廃屋に子猫はいなかった。
彼の胸に急にいやな重苦しさが立ちこめた。あたりの草地を見回した。黄色い花々が、夏風に大きく首をゆらしていた。心がざわめいた。国道を走り過ぎて行く車の音が、少年の不安をさらに加速させた。
そして少年は、はっきりと見た。
国道のど真ん中に広がった赤黒いしみ。そこにぺったり倒れている、小さな小さな身体を。
体中の毛が逆立った。顔の皮膚がみるみるうちに、気持ち悪いほどつりあがっていくのがわかった。同時に、目から熱い涙があふれ、ぼたぼたとしたたり落ちていくのがわかった。
どこかよく分からないところで、わあああああああ!と叫んでいる自分の声がはっきり聴こえていた。
手がわなわなと震え、ひざが震え、少年はその場に四つんばいに伏した。そして、うつむいたまま、地面をかきむしるように、声をふりしぼって叫んだ。体中から湯気をたてて、よだれと鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、心の奥底から吠えて泣いた。
夕暮れの光が西の空をオレンジ色に染め、やがて夕闇が、空の高いところから静かにおりてくるまで、少年は、ずっと草地でひざを抱えたまま座っていた。
小さな木を組んだ十字架のわきで、ただ、ぼんやりと空を見ていた。子猫の亡骸を運んでうめたときに手にこびりついた血が、土とまじってどす黒い汚れになっていたが、少年はその手を汚いとは思わなかった。
まざまざと自分の黒い手を見つめた。
かつて、一人の女の子を傷つけた手を。そして、小さな命を抱きしめたその手を。ミルクを飲ませようと何度も差し出したその手を。
甘いプラリネも、キャラメルも、白い花も、もうどこにもなかった。黒い穴が開いたような心に残っていたのは、十字架の乾いた木を思わせるサンダルウッドと、冷えていく皮膚に沈むムスク。そして、その奥で香る、かすかなヴァニラだった。
少年はそのとき初めて思った。彼女もまた一人ぼっちだったのかもしれない。甘い香りの内側で、届かない声を上げていたのかもしれない。自分は彼女の香りを知っていた。髪も、白いうなじも、笑い方も知っていた。つもりだった。けれど、彼女が何を怖がり、何を求めていたか。そんな大事なことを、何ひとつ知らなかった。
そのとき、少年は確かに聞いた。自分の心の奥底から響いてくる自分の声を。
それでも 歩きだせ 歩きだせ …
暗いオレンジ色に染まった夕空の前で、真っ黒な手をぎゅっと握りしめた。指の間から土がぱらぱらとこぼれ落ちた。
ゆっくりと体を起こし、立ち上がった。子猫を埋めた十字架を一度見下ろして、そして、暗いシルエットになり始めた夕暮れの国道沿いに向かって、少年は歩き始めた。
ふらつきながらも、一歩一歩確かな足どりで。
子猫が自分の足で草地を出て、世界に向かって歩き出したその強さを思って。
くちびるを固く結んで。後ろも振り向かないで。
風の奥に香るヴァニラ ラスト。それはもう、彼女の香りではなかった。
子猫に差し出した手。
小さな身体を抱きしめた腕。
土の中へ命を返した黒い指。
傷つけたことを忘れず、それでももう一度、誰かに差し出すための、自分の手の匂いだった。
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そして少年は、また一人になった。けれどもう、一人ぼっちではなかった。

VANILLA LUST EAU DE PARFUM
D’s SCORE
(4.6/7.0)
BRAND
ジルスチュアート
FRAGRANCE
ヴァニラ ラスト オード パルファン
LAUNCH
2005
FRAGRANCE TYPE
ピュア オリエンタル ヴァニラ
TOP NOTES
プラリネ、キャラメル、ココナッツ
MIDDLE NOTES
ジャスミンサンバック、フリージア、ティアレ、オレンジフラワー、ピーチ、ラズベリー
LAST NOTES
サンダルウッド、ヴァニラ、ムスク
PERFUMER
公式情報では確認できず

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