CALVIN KLEIN | CK BE

シーケー ビー

 D’s SCORE(4.8/7.0)

 冷たい夜に
 忘れかけていた温もり

金曜の夜。俺は、自分が生きているということさえ忘れるほど疲れていた。

仕事を終えて会社を出ると、いつものようにあたりは真っ暗だった。くたびれた足取りでカバンを車に投げ入れ、どっかりと腰をドライバーズシートに入れる。その瞬間、まるで風船がしぼむように長い吐息がもれる。

ふーーーーーーっ。

スイッチをオフにしたかのように、体中から力が抜ける。ダッシュボードの小物入れを開け、シーケービーの黒いボトルをつかみ出す。シャツのボタンをひとつ外し、胸元にワンプッシュ。汗が乾いてなお火照りの残っている左右の腕にもスプレーボタンを押す。ベルガモットのかすかな明るさの奥から、ミントやジュニパーを思わせる青い気配。濡れた針葉樹の葉を指先で折ったような、少し尖った冷たい香りが車内に広がった。

大きく一呼吸してから、キーをイグニッションに差し込み、軽くひねると、エンジンもやけにもったいをつけてから動き始めた。ウィンカーを出して、夜の闇の中へ車をすべらせていく。オフィス街のこのあたりは、最近残業も少ないのか、どのビルももうすでに暗い闇の中に溶け込んでしまっている。ただ道路を照らすナトリウム灯だけが、くすんだオレンジ色の光をそこかしこにぼんやりと投げかけているだけだ。

ちらりとダッシュボードの時計を見る。九時二十分、今日は金曜日だ。どこかへちょっと寄り道して帰ろうか? ふとそんな思いにとらわれる。フロントガラスの向こうに、派手な繁華街のイルミネーションがぽつりぽつりと浮かんでいる。しかし結局、今日もどこへも寄ることなしに、ただアパートへ帰るのだということもわかっていた。

いつからだろう。俺は何かひとつ、大事なものをどこかへ置き忘れてきたのかもしれない。

毎朝、疲れの抜けきらない体を起こし、国道のラッシュに車の鼻先を入れてからやっと目を覚まし、会社では一日中書類の処理と電話の応対に追われ、気がつけばいつも夜だ。そしてこんなふうに車をだらだらと運転して、どこかへ寄っていこうかなどと思いながら、結局何をするともなくただアパートへと帰り、夜ふけのテレビ番組をずっと垂れ流しにしながら、缶ビールをあおって、また寝るだけの日々が続いている。

今日もまたいつものように、俺は繁華街のネオンの下へ向かわずに、薄汚れたアパートがある静かな住宅街へ向けてステアリングを切り始める。そうだ、俺は毎日この道をただ朝晩行ったり来たりしているだけだ。アパートと会社をつなぐこの道を往復しているだけの人生だ。いったいいつからこんなふうになったんだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、とある店先の自動販売機の前に車を横づけした。

そういえば毎晩アパートに帰る時に、この自動販売機でコーヒーを買うのもほとんど日課のようになっている……。清涼飲料の自動販売機にコインを流し込みながら、そんなことを思った。下の列の左から二番目、いつもと同じ缶コーヒーのボタンを押して――

……ん? 

缶コーヒーのボタンを押そうとした俺の手が、ふと止まる。

一瞬戸惑い、そしていつものようにその缶コーヒーのボタンを押した。ガラガランと缶コーヒーが取り出し口に落ちる音。俺はゆっくりとそいつを取り出すと、またひとつ大きなため息をもらした。

車のエンジンを止め、自動販売機の前にあるコンクリートの縁石に腰をおろした。そのとき、シャツの胸元からふっと香りが立った。さっきまで尖っていたシーケービーの青い香りはいつの間にか角をなくし、冷たさの中にラベンダーを思わせる清潔で柔らかな気配を帯び始めていた。ほんの少し前までとはもう違う香りだった。

漆黒の闇の中、閑静な住宅街に、家々の灯りがキャンドルライトのようにどこまでも遠く連なっている。そしてその屋根の上に、ぽっかりと銀色の月が光り輝いていた。星々を従えて、高い空のてっぺんで冷たい風にまどろんでいた。

そうだ、いつの間にかこんなことさえ忘れていた。このあたりはこんなにも静かな場所だったんだ。

ほとんど通る車もない道路をぼんやりと見つめながら、ひとときそんなことを考えた。冷たい夜風が、外したシャツのボタンの隙間からすべり込む。その風に押されるように、シーケービーがもう一度淡く香った。ラベンダーの向こうに白い花のような柔らかさ。そしてさらにその奥から、白桃の果肉を思わせる、ごくかすかな甘さがのぞいた。

俺がどこかへ置き忘れてきた何かが、一体何だったのか、やっと気づいたのだった。アスファルトに置いた缶コーヒーを手にとり、プルタブを引く。そういえばあいつは今頃どうしているんだろう? そんなことを考えながら、ごくりと缶コーヒーを喉に流しこむ。

「さようなら。もう二度とあなたに迷惑はかけないから。」

彼女と別れたのは六月の初めだった。太陽がこの世界を焼き尽くす夏が、始まる前のできごとだった。彼女は俺のアパートから荷物をまとめ、俺の前から姿を消した。そうだ、思えばそれからだ。俺がこんなにも単調で変化のない日々を過ごすようになったのは……。

コーヒーの缶をぶらぶらと手でもて遊びながら、もう一度夜空を眺めた。いつの間にか季節も変わってしまっていたんだなあ。あいつと別れて、もう三か月が過ぎたのか。缶コーヒーも変わるわけだ。そんなことを思いながら。

残りのコーヒーを一気に喉に流しこんで、空き缶を自動販売機の横のボックスに投げ入れ、そしてまばゆい販売機に目を細める。つい昨日まで冷たいコーヒーしか入っていなかった自動販売機には、ところどころ赤のラベルが貼られ、あたたかいコーヒーが入っていた。

ただそれだけのことだった。そして俺が、そんなささいなことに季節が変わったことを知らされただけのことだ。高くなった秋の空も、少し肌寒い夜風も、いつも車ですどおりしているだけの俺にはわからなかった。毎日何気なく冷たい缶コーヒーのボタンを押していた俺が、赤いラベルで「あたたかい」と書かれたボタンに触れてわかったことだった。

そしてそれがすべてだった。一人きりのまま季節が過ぎたということを、ことのほかしみじみと思い知らされただけのことだった。

車のドアを開けて、俺はくたびれたスーツをどっかりとシートに預ける。さあ、家にでも帰るか。今はもう、誰も待つ人もない、灯りの消えた冷たいアパートへ。今の俺にはそこしか行くところはないのだから。あいつはもう、戻ってはこないのだから。

腕をステアリングへ伸ばしたとき、肌からかすかな香りが立った。最初の冷たい青さは、もうどこにもなかった。白い花も桃の甘さも遠ざかり、最後に残っているのは、ムスクと柔らかな木を思わせる静かなぬくもりだった。肌のすぐそばで、消えそうになりながら、それでもまだ確かに残っている。

カチッ、カチッ。

右に出したウィンカーの音が、やけに大きく感じられた。

バックミラーの中で、自動販売機の赤い「あたたかい」という文字が、少しずつ遠ざかっていく。車内には、ぬくもりを帯びたシーケービーの香りが、もうほんのわずかに漂っていた。

金曜の夜。俺は忘れていた呼吸をひとつ取り戻し、夜の住宅街へとステアリングを切りはじめた。

FRAGRANCE DATA
D’s SCORE
4.8 / 7.0
CALVIN KLEIN
CK be
LAUNCHED
1996
FRAGRANCE TYPE
Eau de Toilette / Floral Woody Musk
TOP NOTES
ラベンダー / グリーンノート / ベルガモット / ミント / ジュニパー / マンダリン
MIDDLE NOTES
グリーングラス / ジャスミン / ピーチ / フリージア / マグノリア / オーキッド
BASE NOTES
ムスク / サンダルウッド / シダー / バニラ / アンバー / オポポナックス
PERFUMER
René Morgenthaler
Doggy Honzawa
Perfume Storyteller
「ハートスコープ」は、香りから見えた心象風景。

ここで分類している「ハートスコープ」や「感情」は、ひとつの香水と向き合う中で、自分が受け取った印象です。

けれど、香りにひとつだけの正解はありません。

同じ香りから、あなたにはまったく別の風景が見え、忘れていた記憶がよみがえるかもしれません。

ここにあるレビューや物語が、あなた自身の風景や感情と出会うための、小さな入口になればうれしく思います。
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