アザロ
クローム


D’s SCORE(4.7 / 7.0)
海の記憶をほどく、
青い香り

父が、家からいなくなったのは、ぼくが5才のときだ。
その日のことは、あまりはっきりとは覚えていない。母は、ぼくを肩のあたりまで抱き上げていたように思う。父はそんなぼくの頭を、大きな手で何度かなでた。そして、何かを言おうとして口を開いた。

でも次の瞬間、泣きそうなくらい顔をしわくちゃにして笑って、そのまま背中を向け、行ってしまった。振り向かない、広い背中。きょとんとして見ていた。
母は最後まで父に背を向けていた。去っていく父に、いつものように「いってらっしゃい」と言いかけたぼくの体を、母が強く抱きしめた。息ができないくらい苦しかったことだけは、今も覚えている。
父とは、それ以来何十年も会っていない。そして父との思い出にも、いつしか銀色の重たいふたをしたまま、生きてきた。
ふいに、ポケットの中で握りしめていたスマホが、ゆるく震えた。ラインの着信。
『お、そろそろか……』
画面を開き、「今、電車でそちらへ向かっています」それだけを送って、またスーツの内ポケットにしまった。
電車は灰色のビル街を抜け、広々とした河川敷へさしかかっていた。線路の音が変わる。窓の向こうには鈍色の空が広がり、その一角だけが白く照り返していた。そのまぶしさに、思わず目を細める。
つり革を握り直したとき、今朝手首につけたアザロ「クローム」の香りががふっと鼻をかすめた。目覚めたばかりのまばゆい朝のような香り。
柑橘を思わせる明るい酸味。冷たい風のような青さ。磨き上げられたばかりの金属のような、キンとした透明感。
銀色の空と硬質な香り。ぼくの中にもまだ、どこか冷たく閉じたものが残っている。
父のことを想った。父との思い出は、数えるほどしかない。それでも、ひとつだけ。なぜか消えずに残っている情景がある。
あれは、夏に向かう季節だった。
父に連れられて、二人で海へ出かけた。どこまでも続く砂浜。陽を弾きながら砕ける波。
ぼくは、そこら中に落ちているごみを拾っては、一心不乱に海へ投げていた。何がそんなに楽しかったのか、もう覚えていない。
父は少し離れたところに立ち、ときおりそんなぼくに目を細めながら、大きな背中を海に向け、ゆっくり煙草を吸っていた。潮風にほどけていく、紫煙の細い糸。
父が家を去ったあと、母は、「あの人が私たちを捨てた」と言ってはばからなかった。ぼくもまた、母の厳しい横顔を見上げながら、父のことはなるべく考えないようにして生きてきた。幼な心に、そうしなければ母を困らせる、そう思っていた。
なのに
最近になって、なぜかあの日の海をよく思い出す。重たいふたをして、心の底へ沈めたはずなのに。
『父さんは、なぜ、あのとき、ぼくを海へ連れ出したんだろう……』
電車は、心なしかスピードを増していた。いつの間にか、手首のクロームから鋭い明るさは退いていた。代わりに漂っていたのは、もっと静かな、白い香り。
水を含んだ風。洗い立ての白い布。ほのかに花を思わせる、透明なやわらかさ。そんな香りに押されるように、沈めていた記憶が少しずつ浮かび上がってくる。
すごいスピードで過ぎてゆく車窓の向こうに、あの日の海の音と潮風が満ちてゆく。
キラキラと光る海。熱を持ちはじめた砂。父の広い背中。煙草をはさんだ大きな手。
父は、あの日、何を考えていたのだろう。
もうすぐ離れ離れになることを、知っていたのだろうか。だから、ぼくを海へ連れていったのだろうか。最後に何かを残そうとしていたのだろうか。
考えても、答えなど出るはずがない。
車窓には、郊外の緩やかな稜線に沿って、団地やマンションが流れ始めていた。相変わらず空はまぶしい。けれど、その光が少しずつ胸の奥へ落ちてくるような気がした。
本当はずっと、父に言いたかったことがあったのかもしれない。
憎んでいたわけではない。忘れたかったわけでもない。ただ、口にしてしまえば、自分の中の何かが壊れてしまいそうで、言えなかっただけなのかもしれない。
父さん。ぼくは、本当は……
また、スマホが小さく震えた。画面を見る。
『いよいよか……』
左手の腕時計に目を落とす。大丈夫。まだ間に合う。
その瞬間、手首からまたクロームの香りがした。それはもう、朝の鋭いシトラスではなかった。
青い透明感を残しながら、肌の上には淡いムスクと乾いた木のような穏やかさが残っている。朝には冷たく硬く感じられた香りが、いつの間にか肌になじみ、やわらかな温もりを帯びていた。まるで、長い時間をかけて、角が取れたかのように。
アザロ・クローム。そうだ。この香りは、創業者が「父と子」「家族と過ごす時間」をテーマに、その記憶を静かにたたえた香りだった。
ふいに、あの日の海が鮮明によみがえる。幼いぼく。光る波。煙草の煙。そして、海を見ていた父の横顔。
父が何を思っていたのかは、もうわからない。なぜぼくを海へ連れていったのかも。
それでも。
あの日、父は確かにぼくの隣にいた。ぼくを海へ連れていった。ぼくを見て、笑っていた。
そのときだった。
心の奥で、何かが外れる音がした。5歳のあの日から、父との記憶の上に置き続けてきた、あの銀色の、重たいふたが。
――かちり。
ほんの小さな音だった。けれど、それは確かに、胸の奥で響いた。
『おとうさん』
喉の奥から、何十年も閉じ込めていた声が上がってきた。
『ぼくは』
息が震えた。
『おとうさんが』
もう、止められなかった。
『だいすきだった』
思わず片手で両目をおおった。指の間が、涙でぐしょぐしょに濡れた。
前に座っていた人たちが、一瞬けげんそうにこちらを見たことにも気づいていた。けれど、そんなことはどうでもよかった。
何十年も心の奥底へ押し込めていたものが、堰を切ってあふれていた。5歳のあの日から、一度も言えなかった言葉。
『おとうさん。
ぼくは、 おとうさんが 大好きだったよ。』
乾いた細い声のアナウンスが、車内に響いた。電車がホームへ滑り込む。
ぼくは熱くなった顔を上げ、何度もハンカチで頬をぬぐった。左右にドアが開く。その瞬間、ホームへ飛び出した。
階段を駆け上がり、改札を抜ける。
駅前へ出ると、すぐにタクシーを拾った。病院の名前を告げる。ドアが閉まり、車が走り出す。
震える指で、すばやくラインした。
「今、駅からタクシーで向かっています。」
「お義母さん、もう少しで着くので、妻をお願いします」
送信する。
窓の外を、緑の街が後ろへ流れていく。
手首にはクロームの余韻が残っていた。朝の硬質な銀色はもう遠く、海の青さをわずかに残しながら、ムスクと木の穏やかな温もりだけが肌に寄り添っていた。
遠い夏の日。父の大きな背中。
そして今、病院で待っている、まだ見ぬ小さな命。
その二人に思いをはせた。
そしてぼくはもう一度、義母に送信した画面を見つめた。

「今日、父になる男より」

4.7 / 7.0
アザロ|クローム
1996
シトラス・アロマティック
レモン、ローズマリー、ベルガモット、ネロリ、パイナップル
ジャスミン、オークモス、シクラメン、コリアンダー
ムスク、オークモス、シダー、サンダルウッド、
カルダモン、ブラジリアンローズウッド、トンカビーン
ジェラール・オーリー

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