キリアン
ヴレヴ・クシュ・
アヴェク・モア


D’s SCORE(7.0 / 7.0)
危険なのは、香りじゃない
この香りを纏った、あなた

「私と寝てみない?」
その問いは、耳ではなく、まっすぐ心に突き刺さった。

ホテルの最上階。窓一面に広がる都会の夜景。グラスに揺れる琥珀色。そして、暗いバーのテーブルに向きあう二人。小さなキャンドルが、二人の手元だけを闇から浮かび上がらせている。
女はいたずらっぽく笑い、バッグから黒いクラッチケースを取り出した。そこには向かい合う2匹の金の蛇の装飾。それを見た瞬間、思った。誘う相手を、間違えたかもしれない。グラスにかけた手が少しこわばる。そんな私におかまいなく、彼女はケースから白い香水ボトルを取り出すと、手首の内側にスプレーした。
「キリアンの『ヴレヴ・クシュ・アヴェク・モア』よ。」
「……舌を噛みそうな名前だ。フランス語だね。意味は?」
「さっき言ったわ。」
「……」
「私と寝てみない?」か。大胆だ。上目遣いの女の黒い瞳に、一瞬キャンドルの炎が揺らいだ気がした。
不意に彼女の腕が、白い蛇のようにすっと伸びて、私の鼻のあたりに鎌首をもたげた。嗅いでみて、とばかりに。煽情的な名前とは裏腹に、その香りは驚くほど柔らかかった。最初に感じたのは、ネロリとオレンジブロッサム。とてもふくよかな白い花の香り。夜の帳が静かにおり始める。ヴレヴの香りは、音もなく夜と私の内側へ入りこんだ。
「ほう。名前ほど、危険な香りじゃないようだ。」
そう答えると、彼女はシャンパングラスを傾けて首をかしげた。
「危険なのは、香りじゃないわ。」
紅い口紅が、グラスの縁を意味ありげになぞる。
「この香りを纏った私。」
そう囁いた瞬間。なまめかしい白い花の蜜香が、女の手首からあふれだした。甘くとろけながら、逃げ道だけを静かに塞いでいく。それは夜の禁断花、チュベローズの誘惑的な香りだった。
冷えたシャンパングラス。互いの真意を探る視線。彼女の手があと数センチで自分に触れる。その数センチこそ、今夜いちばん危険な距離だった。固唾を呑んだ。
女の白い指が眼の前で閉じ、また開く。そのたび、呼吸の間隔が少しずつ短くなっていった。熟れたバナナを思わせる、濃密で妖しい甘さ。イランイランの気配。やがてクリーミーなガーデニアが重なる頃には、その香りはもう空気ではなく、二人を包む官能的なヴェールのように思えた。
甘く、艶やかで、逃れられない香り。その気配に気圧された。まるで、蛇ににらまれた蛙のように。
女がこちらに身を乗り出す。その刹那、白い指が私の頬に触れる。黒いドレス。なまめかしい首筋。切れこんだ胸元に一筋だけ流れ落ちた髪。下から私を覗きこむ猫のような瞳。息をすることすら忘れかけた。
「ねえ。まだ返事を聞いてないわ。」
答えられなかった。頬に触れた冷たい女の指が、私の乾いた唇の形をなぞった。その瞬間、目の前で黒い光が弾けた。次の瞬間には、夜そのものが視界を塞いでいた。
・・・・・・・・
気が付くと、暗い天井で何かが回っていた。アンティークなシーリングファン。この部屋は?おそらく先ほどのホテル。私の部屋?だとすると誰が……私をここまで?
ぼやけた視界と意識が焦点を結んだとき、女の長い髪が私の裸の胸に広がっていることに気付いた。驚いて跳ね起きようとした。そして瞬時に悟った。ムダな努力だと。上に乗った女のしなやかな肢体が、私の腕や足にからみついていた。
白いヘビのように。
夜の色をしたシーツの砂漠で。金色のフロアランプが切り取る闇の中で。その細い体を絶えず揺らし、彼女の唇が、私のあちらこちらをさまよった。その震えるような快楽に意識が遠のきそうになりながら、それでも彼女の体の匂いを鼻腔いっぱいに吸いこんだ。
ヴレヴ・クシュ・アヴェク・モアのラストノート。それはシルキーなヴァニラ。肌にまとわりつくバターミルキーなサンダルウッド。その狂おしいほど生々しい匂いを嗅いだ瞬間、最後まで残っていた理性が、音もなく蕩けた。そして私は、闇に蠢くもう一匹の黒いヘビになった。
反転して女の上に覆いかぶさり、黒い劣情に身を任せ、白い肌を求め続けた。彼女の唇が私の耳をふさぐ。熱い吐息。もうろうとする意識の中で、その言葉が、楽園を追われた創世記のアダムとイヴの道行きのように、絶望的に響いた。
「……蛇は、前に進む生き物よ」
求め合う唇。絡め合い、巻きつけあう二人の手足。白と黒、二匹のヘビの裸体は、常闇の中、金色のフロアライトに浮かびあがり、どこまでも妖しく蠢いた。

ヴレヴ・クシュ・アヴェク・モア?(私と寝てみない?)
この香りの問いに、否(ノン)と言える男を、私は知らない。

FRAGRANCE DATA
D’s SCORE
7.0 / 7.0
BRAND
KILIAN PARIS
FRAGRANCE
VOULEZ-VOUS COUCHER AVEC MOI
YEAR
2015
TYPE
オード パルファム
フローラル
TOP NOTES
チュベローズ
MIDDLE NOTES
イランイラン
ガーデニア
BASE NOTES
サンダルウッド
ヴァニラ
PERFUMER
アルベルト・モリヤス

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