ディオール
ボワ・ダルジャン


D’s SCORE(6.0 / 7.0)
夜のはじまりに、
銀のアイリス。

夕方の光が、少しだけ早く傾くようになった。
まだ夏は終わっていない。昼間には熱が残り、道の照り返しも強い。それでも夕方、窓を開けた瞬間に入ってくる風には、昨日までとは違う気配が混じっている。
木々の葉を通り抜けてきた乾いた匂い。遠くで鳴く虫の声。少しだけ冷たくなった空気。
季節が、ほんの少し動いている。

そんな晩夏の夕暮れに、ボワ・ダルジャンを肌にのせる。
2004年に生まれた、ディオールのボワ・ダルジャン。名は「銀の木」。
肌にスプレーすると、まず鼻をくすぐるのはパチュリの土っぽい気配。その奥から、お香の煙を思わせる温かな香りがゆっくり立ち上がってくる。
夕陽を浴びていた木々が、一日の熱を少しずつ手放していく頃の匂いに似ている。
その中にアイリスがいる。まだ輪郭は淡い。根茎を思わせる暗さも、白粉のような強い化粧香も目立たず、白い花の気配だけが、煙の向こうに薄く浮かんでいる。
西の空には、まだ橙色が残っている。けれど、その色も長くは続かない。五分、十分。陽が沈むにつれて、香りの中にも小さな変化が訪れる。
ミルラの酸味が、鼻の奥をほんの少し刺激する。発酵した樹脂を思わせる、かすかな酸っぱさ。すると、それまで影の中にいたアイリスが、急にやわらかな光を帯びてくる。
ここからが、ボワ・ダルジャンのいちばん好きなところだ。
白くきめ細やかな粉。美しく、柔らかい銀色の粉の香りになる。
白粉ほど石けんぽくなく、小麦粉のような生々しさもない。細かな光の粒が、肌のすぐ上を漂っているようなパウダー感。
夕焼けの色が消え、空が青紫へ変わっていく。街の灯りがひとつ、またひとつと点きはじめる。その薄明かりの中で、アイリスの粉だけが静かにきらめいている。月光に照らされた夜の海。暗い水面の上で、細かな波だけが銀色に明滅している。そんな香りのミドル。
パチュリの土の気配。お香の煙。ミルラの酸味。そして、その上に降り積もるアイリスのパウダー。
どれかひとつが前へ出るというより、夕暮れの景色のように少しずつ色を混ぜながら、ひとつの空気になっていく。
空はもう、夜の帳がおりはじめている。昼間の熱を残していた風も、少し冷たくなった。夏と秋の境目。明るさと闇の境目。
ボワ・ダルジャンがいちばん美しく思えるのは、こんな時間かもしれない。
肌の上にのせた銀色は、少しずつやわらかくなっている。パチュリの輪郭は遠のき、お香の煙も薄くなる。そのかわり、香りの奥からほんのりと甘さが浮かんでくる。
蜂蜜のような。それは濃く滴るような甘さではなく、薄い金色の光を一滴だけ落としたような甘さ。そこへ、洋酒を含ませたような柔らかなレザーが重なり、最後にはムスクの清潔な気配が静かに残る。
窓の外は、すっかり夜だ。
高台へ出る。
眼下には、無数の灯りが息をしている。麓から海沿いまで、琥珀色の光の粒が途切れることなく続き、その果てに靄をまとった夜空が横たわっている。片側には黒い松の影。枝葉が風にわずかに揺れ、輪郭だけを夜に預けている。
見上げれば、月。
街の灯りがどれだけ増えても、この光にだけは追いつけない。ただひとつの、白。
肌の上のボワ・ダルジャンも、同じ孤独を纏っている。
ハニーの温もり。柔らかなレザー。透明なムスク。その奥に、最後のひとひら――銀色の粉雪のような、アイリス。
無数の灯りに紛れることなく、月のように、ただひとつだけ違う色を放っている。
遠くで電車の音がした。街の灯りが、また一つ瞬く。
けれど、月は沈まない。
今もまだ、あの孤高の光を、地上へ注ぎ続けている。

ボワ・ダルジャン。肌の上にも、銀の月がきらめいている。

6.0 / 7.0
DIOR
BOIS D’ARGENT
2004
ウッディ・パウダリー
パチュリ
インセンス
アイリス
ミルラ
ハニー
レザー
ムスク
アニック・メナルド




コメント