イヴ・サンローラン
タキシード


D’s SCORE(5.2 / 7.0)
急ぎ足の街、
あの頃の香りで

地下鉄の改札を抜けたところで、見覚えのある後ろ姿を見つけた。
急に、街の音が遠くなる。

行き交う人の声、ホームへ急ぐ足音。その全部が、一枚の厚いガラスの向こう側へ押しやられたようだった。
彼だ。間違えるはずがない。少し広い肩。歩くとき、ほんのわずかに右へ傾く癖。左手首の時計を確かめる仕草まで、三年前と変わっていなかった。
いつの間にか、私はその背中を追っていた。
出勤まではまだ少し時間がある。本当なら駅前のデパートへ寄って、新作のカシュクールブラウスを見るつもりだった。そんな予定は、もう頭のどこにもなかった。
彼との距離は、
5メートル。
それ以上、近づけない。
それ以上、離れられない。
何人もの背中を間にはさんで、ホームへ向かう。
彼が売店の前で立ち止まり、並んだ新聞の見出しに目を走らせる。横顔が見えた。胸の奥が、ドクン、と鳴った。
少し痩せた。髪にも、あの頃にはなかった白いものが混じっている。
三年。
たった三年。
なのに、ずいぶん遠くまで来てしまった気がした。
彼は、以前勤めていた会社の上司だった。
営業部では二人一組で取引先を回ることが多く、入社したばかりだった私は、ほとんど何もできないまま彼と組まされた。
濃い色のスーツを隙なく着こなし、取引先を前にすると、不思議なくらい場の空気を読む人だった。こちらが言葉に詰まれば、さりげなく会話を引き取り、いつの間にかこちらへ話を戻してくれる。失敗しても怒鳴られた記憶はない。
「大丈夫。俺にも君くらいの頃があった」
よく、そう言った。
「今は俺についてきて、仕事を盗めばいい」
私は本当に、彼の背中ばかり見ていた。
仕事も。
生き方も。
たぶん、それ以外のものまで。
ホームの奥から低い轟音が近づいてくる。風が吹いた。髪が頬にかかる。耳元の小さなピアスが冷たく揺れた。
家を出る前につけたタキシードが、手首からふっと立ち上がった。
バイオレットリーフとコリアンダー。
青く、乾いて、少し冷たい香り。
鏡の前でブラウスの襟を整えていたときは、その硬質な感じが今日の服によく似合うと思った。
電車が滑り込んでくる。プシューッ、とドアが開いた。私は、人の流れに紛れて彼と同じ車両へ乗った。
車内は少し混んでいた。彼はドアから数歩入ったところに立ち、窓の方を向いている。私は二メートルほど離れた場所に立った。同じように窓を見る。
向かいに座っていた男の視線が、一度、スカートのひざ元へ落ちた。そして、ゆっくり上がってくる。目が合った。こちらがそのまま見返すと、男は慌てたように新聞へ顔を隠した。
その直後だった。
右側から視線を感じた。
彼。
反射的に顔を向けそうになり、やめた。胸が早鐘を打つ。
いや、気づくはずがない。
彼の記憶の中にいる私は、ここにはいない。
電車が加速する。窓の外から光が消えた。地下へ入ったのだ。
黒いガラスが、鏡に変わる。
そこに彼の姿が映った。少し疲れた横顔。昔より細くなった頬。白髪。そして、その少し離れたところに、私がいる。
三年前も、毎日のようにこうして隣にいた。取引先を回り、途中で昼を食べ、会社に戻り、また二人で外へ出た。それが当たり前だった。
だからこそ、苦しくなった。
彼を好きになった。
いつからだったのかは、もう思い出せない。尊敬が別のものに変わった瞬間など、たぶんなかった。気づいたときには、彼が笑うだけで一日が少し明るくなり、他の誰かと話しているだけで胸がざわつくようになっていた。
叶うはずのない気持ちだった。伝えるつもりもなかった。けれど、何も言わず彼の隣に立ち続けることも、いつしかできなくなった。
私は会社を辞めた。
一身上の都合。
紙の上では、たったそれだけ。
彼は本当の理由を知らない。
今も、きっと。
電車が一つ目の駅に止まる。人が降り、人が乗ってくる。また走り出す。
彼は相変わらず窓を見ている。
三年前、私がいなくなったあとにも、新しい部下が隣に立ったのだろう。
また誰かに仕事を教えて。
また、
「俺にも君くらいの頃があった」
なんて言って。
そう考えたら、不意に少しだけ腹が立った。
勝手なものだ。
何も伝えず消えたのは、自分なのに。
二つ目の駅。
人の流れで、彼との距離が少し縮まった。
そして私は、
一歩、
彼の方へ動いた。
もう一歩。
いつの間にか、真横に立っていた。
かつて好きだった人の隣。
三年前と同じ距離。
でも、まったく違う時間。
彼がちらりとこちらを見る。一瞬だけ。目が合いそうになった。けれど彼はすぐに視線を上げ、窓の上の広告へ戻した。
知らない女を見る目だった。
胸が痛んだ。
なのに、少しだけ嬉しかった。
私はバッグを持つ手を替え、そっと左手首を顔の近くへ寄せた。
タキシード。
最初の青く乾いた香りは、もうほとんど残っていない。
パチョリの深い影。
その奥に、柔らかなバニラの甘さ。
ほんのわずかにローズ。
ずいぶん優しくなった。
三年前も、この香りをつけていた。
営業先へ向かう車の中でも。
彼の隣のデスクでも。
残業を終えて、二人で駅まで歩いた夜にも。
香りは同じだ。
でも、
窓に映る私は違う。
長い髪を肩に落とし、ブラウスとスカートをまとった私。その隣に、彼がいる。
黒いガラスの中には、男と女が並んでいた。
三年前とは違う。
彼の隣でスーツを着ていた、あの頃の私は男だった。
電車の音だけが、暗闇の中を走り続けている。
昔の自分を捨てたわけじゃない。
でも、戻りたいとも思わなかった。
彼がもう一度、こちらを見た。
今度は少し長かった。
眉が、ほんのわずかに寄る。
何かを探しているような目。
その瞬間。
心臓が跳ねた。
香り?
まさか。
三年前、彼が私の香水を覚えていたなんて思えない。
それでも、ほんの少しだけ期待した。
次の駅を告げるアナウンス。
聞いたことのない駅名だった。
電車が減速する。体が前へ傾き、彼の肩と私の肩が触れそうになる。彼がまたこちらを見た。
私は小さく頭を下げた。
「失礼します」
声には出さず、そう言って。
開いたドアへ向かう。
彼の前を通り過ぎる。
その一瞬だけ、
手首に残ったタキシードが、彼の方へ流れてくれればいいと思った。
それだけでよかった。
ホームへ降りる。
振り返らない。
プシューッ。
ドアが閉まる。
電車がゆっくり動き出した。
暗い窓の向こうに、彼がいる。
こちらを見ていたような気がした。
でも、確かめなかった。
やがて最後の車両が闇へ消えた。
静かになったホームで、一人になる。
そこでようやく、駅名の表示を見上げた。
・・・ここ、どこよ?(笑)
三駅も乗り過ごしていた。

階段へ向かって歩き出す。
手首には、まだタキシードが残っている。
最初とは違う。
青く尖っていた香りはほどけて、肌の上で柔らかく、少し甘くなっている。
三年前と同じ香り。
でも、それをまとって歩いている私は、もう違う。
遠くで、発車のベルが鳴った。
階段の向こうから、地上の光が落ちてくる。
スカートの裾を揺らしながら、光の中へ歩き出した。
この急ぎ足の街で。

FRAGRANCE DATA
D’s SCORE
5.2 / 7.0
BRAND / FRAGRANCE
YVES SAINT LAURENT
TUXEDO
ORIGINAL CREATION
2015
FRAGRANCE TYPE
ウッディシプレー / ジェンダーレス
TOP NOTES
バイオレットリーフ
ベルガモット
コリアンダー
MIDDLE NOTES
ローズ
リリーオブザバレー
ブラックペッパー
BASE NOTES
アンバーグリス
パチョリ
バーボンバニラ
PERFUMER
Juliette Karagueuzoglou

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