トム フォード
ローズ プリック


D’s SCORE(4.6 / 7.0)
黒い棘の向こう、
真夜中の薔薇園へ。

「その薔薇には、名前にしてはいけない棘がある。」
なぜ、みんな少しだけ言葉を濁すのだろう。
TOM FORD「ROSE PRICK」。
普通に読めば、「薔薇のひと刺し」。薔薇の棘に、ちくりと刺された傷。ただし英語の prick には、もうひとつ、スラングとしての意味がある。だからこの名前を見た瞬間、どうしたって思うのだ。

トム。また、やったな。
F***ing Fabulous。Lost Cherry。上品な顔をして、どこか意味深な名前を香水につけてきた男。そんなトム・フォードが、よりによって薔薇に PRICK を合わせた。
「単なる薔薇の棘ですよ」
そう言われても、素直に信じろという方が難しい。
とはいえ、そこから先を掘り始めると危険だ。言葉の裏側を覗き込みすぎれば、こちら側の妄想まで薔薇色に染まり始める。だから、このくらいにしておこう。
ローズ・プリック。公式には、トム・フォード自身のプライベートな薔薇園からインスピレーションを得た香りだという。
秘密の薔薇園。
もう、その言葉だけで十分に怪しい。一体、その庭には何が咲いているのだろう。
ボトルは、ほとんど可愛すぎるほどのマットピンク。そこに黒いラベル、黒い文字。桃色の肌に、黒い傷跡を刻んだようなデザイン。
甘く見せておいて、どこか近寄りがたい。可愛い。でも、可愛いだけでは終わらない。
2020年、プライベート ブレンドから登場。調香はギヨーム・フラヴィニー。
ローズプリックを肌にプッシュする。その瞬間、桃色の殻が割れる。
最初に立ち上がるのは、薔薇ではない。
黒。
四川ペッパーの乾いた刺激。ターメリックの土っぽい温度。そしてパチュリの、ぎりりとした苦味。湿った土を掘り返したような暗さの中へ、鋭いスパイスが火花を散らす。
最初に感じる印象を色で分けるなら、
黒いスパイス:ピンクのローズ=7:3。
それくらい、黒い。薔薇は前に出てこない。黒い香りの奥で、静かに咲いている。
メイローズ。ターキッシュローズ。ブルガリアンローズ。
三つの薔薇が使われているというのに、花束を顔の前へ突き出してくるような華やかさはない。むしろ逆だ。薔薇の周囲を、パチュリとスパイスが取り囲んでいる。
まるで桃色の花が、黒い甲冑をまとって夜へ出陣するように。
花弁は柔らかい。けれど、その奥には硬い骨がある。棘。土。鉄。夜。そんなものが、薔薇の輪郭を黒く縁取っている。
だからローズプリックは、いわゆる「美しい薔薇の香水」とは少し違う。女性的とも、男性的とも言い切れない。優雅なのに、どこか無骨。甘いのに、媚びない。花なのに、こちらへ微笑んではくれない。
近づけば香る。けれど触れようとすれば、刺す。
そんな薔薇だ。
香りの大きな変化は少ない。黒いスパイスとパチュリ、その奥に咲く暗いローズ。その構図のまま、長い時間をかけて沈んでいく。
そして終盤。ようやくトンカの柔らかな甘さが滲み出す。あれほど硬かった黒が少しだけほどけ、桃色の花弁に夜露が落ちる。
そこで初めて気づく。
この薔薇は、最初から甘かった。黒い甲冑の下に、ずっと隠していただけなのだと。
この香りを嗅いでいると、昔のトム・フォードを思い出す。
2012年、「Jardin Noir」と名づけられた、夜の庭を思わせるシリーズがあった。その中のひとつ、Café Rose。あれもまた、明るい昼の薔薇ではなかった。
サフランと黒胡椒。三種の薔薇。そしてパチュリ。コーヒーの暗さまでまとい、夜の庭で咲く薔薇。骨組みまで、どこかローズプリックに似ている。
どうやらトム・フォードは、陽光の下で無邪気に咲く花よりも、誰にも見られない夜に、ひっそり匂い立つ薔薇の方が好きらしい。
トム。夜。庭。そして薔薇。
そう並べていたら、ふと一冊の本を思い出した。
『トムは真夜中の庭で』。
真夜中、時計が十三回目の鐘を打つ。その瞬間、そこに現れる、昼間には存在しない庭。少年トムはその場所で、一人の少女と出会う。
けれど二人の時間は、同じ速さでは流れない。会うたびに、少しずつずれていく。昨日会ったはずなのに、次に会えば、彼女だけが何年も先へ進んでいる。
同じ庭にいるのに、同じ時間にはいられない。
その残酷さが、子どもの頃にはよく分からなかった。でも大人になってから思う。人が本当に失うものとは、たぶんそういうものなのだ。
姿が消えることではない。
もう二度と、同じ時間の中には戻れないこと。
そう考えると、ローズプリックの薔薇が急に違って見えてくる。
最初は、ただ危険な薔薇だった。意味深な名前。ピンクのボトル。黒いスパイス。刺すような棘。
けれど香りが静かになっていくにつれ、その黒は、欲望の色から夜の色になる。
誰もいなくなった庭。灯りもない。声もない。ただ、どこからか薔薇だけが香っている。
暗闇の中では、もう花の姿さえ見えない。それでも、そこに咲いていることだけは分かる。
香りが残っているから。
かつて誰かと歩いた庭なのかもしれない。触れた花なのかもしれない。
黒い夜の底で、桃色の薔薇だけが、ぼんやりと光っている。一輪。また一輪。気づけば庭いっぱいに。
触れてはいけないほど美しく。
忘れてしまうには、あまりに香しく。
ローズプリック。
それは「薔薇に刺された香り」なのかもしれない。
けれど刺されたのは、皮膚ではない。
たぶん、記憶だ。
痛くて、愛おしくて、少しだけ淫らで、そして、どうしようもなく美しい。
真夜中の庭に咲く、桃色の記憶。
遠くで、十三回目の鐘が鳴っている。肌の上のローズプリックが、暗がりでひときわ薫りはじめる。
言葉を濁した理由は、もう分かっている。
prick に刺された者は、誰も多くを語らない。

あのかぐわしい黒い棘が、今も胸のどこかに刺さったまま抜けない。

4.6 / 7.0
TOM FORD
ROSE PRICK
2020
EAU DE PARFUM
PRIVATE BLEND
Sichuan Pepper
Turmeric
May Rose
Turkish Rose
Bulgarian Rose
Patchouli
Tonka Bean
Guillaume Flavigny
ギヨーム・フラヴィニー

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