DIOR | SAKURA

ディオール

サクラ

 D’s score (4.5/ 7.0)

 咲くたび
 あなたを思い出す

 

「一緒に夜桜が見たい」とサクラが言ったので、彼女の誘いにしぶしぶ応じて、深夜の公園に繰り出していた。

それでも、にわかに冷え込んだ夜気にあてられ、ぼくはここまで来たことを後悔し始めていた。

そんな気持ちなどおかまいなしに、サクラは満開の桜を見上げながら、軽く鼻歌を口ずさんでいる。淡い光を放つ提灯が、夜の小径をぼんやり照らし出している。

「なあ、寒いからそろそろ……」

そう言いかけたときだ。

「ね、ここにある桜って何本くらいあると思う?」

彼女が見上げたまま言った。

「え……? そんなの分からないよ。数百本ってとこかな?」

突然の問いの真意を探ろうと、サクラの横顔をちらりと見る。

彼女は夜桜を見上げて微笑んだまま、誰にともなく虚空につぶやいた。

「ううん。ここにある桜はね、一本しかないんだよ。この桜、全部ソメイヨシノでしょ。 もともとは、たった一本の木から増やされたクローンなの」

「クローン……?」

「そう。接ぎ木でね、人が増やして。だからみんな同じ木なんだよ。それで一斉に咲いちゃうわけ」

驚いて空を見上げた。

漆黒の夜空を埋め尽くすように、白く艶めかしい花が咲き乱れていた。

不意に、満開の桜の花に押し包まれるような感覚に襲われ、足を止めた。

どこか苦味のある鋭い花の香りがしたように思えて、立ちくらみしそうになった。

「どうしたの?」

「あ、いや……なんか桜の花の香りが、すごいなあと思って」

「桜の香り? ……それ、あたしがつけてる香水じゃない? これ」

そう言って彼女は左手首をぼくの顔の前に差し出した。

ふんわりと柔らかくて、すっきりした苦味の混じった白い花の香りがした。

「あ、そ、そうかも」

「これ、ディオールのサクラっていう香水だよ。いい香りでしょ?」

「あ、うん。そうだね」

「でも気付いてなかったよね。いつも」

「え?」

彼女は、後ろ手にバッグを抱えたまま、ゆっくりとぼくの前を歩き出した。

そして言った。

「ずっと……気付いてないよね。あたしが髪を切っても、どんな可愛い服を選んで着ても。もっと関心を持ってほしくて、香水をつけても。あたし、いつもこの香水つけてたんだよ。この二年間」

急に呼吸が浅くなった。

大切な何かを、ずっと置き去りにしてきたような気がした。

彼女は前を歩いたまま、ずっと胸の内で暗記してきた言葉を読み上げるように、語り出した。

「DIORのサクラ。2018年発売。調香師はフランソワ・ドゥマシー。彼が日本の桜を見て、小さな白い花が何千もの木に咲き乱れている、息を飲むような光景に圧倒されて作った香り…… 」

突然の独り言に、二の句が継げないぼくの気配を確認して、彼女はさらに続けた。

「トップはグリーンノート。若葉の頃。ハートノートは日本の桜の香りをメインに、ジャスミンとローズ、それにきらめきを与えるヘディオン。花盛りのイメージ。そしてラストは…… 」

息苦しくなっていた。なぜ今、そんな香水の説明なんて……。
それより、さっき彼女の手首の香りをかいだとき、ブレスレットの隙間からのぞいていた真新しい傷。

細く、赤く、まだ消えていない傷。

あれは、まさか サクラ……

「ラストは黄色いミモザ、紫のスミレ、そして石鹸のように消えてゆくホワイトムスクのアコード。それは春の訪れ。」

「サクラ、いったいどうしてそんな……?」

「急に香水の説明なんかするのかって?」

「いや、それもだけど、さっきの……」

手首の傷。それは、ためらい傷じゃないのか?

その一言が言えない。

言葉がのどの奥でつかえて、胸がつまった。

「だって、知らないでしょ? あたしのこと。香水とかすごく好きなことだって」

「……え? そうだったんだ。ごめん、ぼくは……」

「ねえ、あなたは、いつも誰のことを思ってるの?」

「……えっ?」

「知ってる。あなたの中に、誰か忘れられない人、いるよね。あなたはずっとその人のこと見てる。あたしといても。こうして桜を見てても」

不意に、ざあっと一陣の風が吹いた。

漆黒の夜空に花吹雪が舞った。

前を歩いていた彼女が振り返り、寂しそうに微笑んだ。

その瞬間、夜の初めに彼女が話していた「クローン」という言葉が、鋭く胸の奥によみがえった。

「あたしは、その女(ひと)のクローンじゃないよ」

「サクラ――」

そのとき、ぼくははっきりと見た。

幾千もの桜の花びらが雪のように降り注ぎ、その花弁の山にうずもれてゆくサクラの幻影を。

それは一瞬の幻視なのに、息をのむほど残酷に美しく、心に突き刺さった。

ふと我に返ると、もうそこに彼女の姿はなかった。

ただ、どこまでも清らかで儚いうす桃色の香りがしていた。

それは、スモモのように爽やかで、杏仁のように白く苦く、ふんわりとした淡いジャスミンのような香りだった。

いつも隣で笑ってくれていた彼女のように優しく、それでいてどこかしらスミレのように影がある、まっすぐで清楚な香りだった。

それはディオールのサクラの香りだった。

サクラの 匂いだった。

Top Notes
グリーンノート

Heart Notes
サクラ/ローズ/ジャスミン/ヘディオン

Base Notes
ホワイトムスク/ミモザ/ヴァイオレット

Release
2018

Perfumer
François Demachy/フランソワ・ドゥマシー

Doggy Honzawa
Perfume Storyteller
「ハートスコープ」は、香りから見えた心象風景。

ここで分類している「ハートスコープ」や「感情」は、ひとつの香水と向き合う中で、自分が受け取った印象です。

けれど、香りにひとつだけの正解はありません。

同じ香りから、あなたにはまったく別の風景が見え、忘れていた記憶がよみがえるかもしれません。

ここにあるレビューや物語が、あなた自身の風景や感情と出会うための、小さな入口になればうれしく思います。
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