アンリ・ジャック
ロレンゾ


D’s SCORE(6.8 / 7.0)
美しすぎて、
何かがおかしい。

「その花園に、近づいてはいけない」
森の奥深く。地図にも載っていないどこかに、一年中、花の絶えない庭園があるという。
誰がつくったのか。いつからそこにあるのか。誰も知らない。
ただ、森の奥には古びた鉄の門扉がひとつ。
黒い鉄格子の向こうには、白や黄色の花々が咲いている。けれど薄い霧に包まれて、その奥までは見通せない。
門扉には、ただひとつの名前が刻まれている。
「LORENZO(ロレンゾ)」
それが庭園の名なのか。
誰かの名なのか。
誰も知らない。

その門扉に手をかけ、一歩、庭園へ足を踏み入れる。その瞬間。周囲の花が咲き始める。一輪ではない。十輪、百輪。白い花。黄色い花。何かが一斉に生命のスイッチを入れたように、あちらこちらで、花が次々に開いてゆく。まるで、目には見えないアルデヒドの霧が、庭園いっぱいに放たれたかのように。花々はその妙なる香りを何倍にも増幅して、庭園いっぱいに響かせる。
まるで、花の香りに襲われるようだ。
美しすぎて、何かがおかしい。
アンリ・ジャック「ロレンゾ」。その圧倒的な花の香りをかいでいると、いつもそんな秘密の庭園に迷い込んだ自分を思い浮かべてしまう。
アンリ・ジャックというブランドは、とても不思議なブランドだ。1975年、グラース近郊でアンリ・クレモナによって創設されたこのメゾンは、長くオーダーメイドの香水を中心に、その世界を築いてきた。やがて、その膨大なアーカイブから選び抜かれた香りが「レ・クラシック」として一般にも紹介されるようになる。
しかし、その香りを生み出した調香師の名が前面に語られることはない。誰の手によるものなのか。どんな物語から生まれたのか。多くは謎に包まれている。まるで、香りそのものがこの世界の秘密の雫でもあるかのように。
ロレンゾもまた、そんな謎めいた一本だ。LORENZOはイタリアでは「ロレンツォ」と読まれる男性名。しかし、この香水がなぜ「LORENZO」と名付けられたのか、その詳しい由来は明らかではない。誰かの名前なのか。誰かに捧げられた名前なのか。それとも、まったく別の物語があるのか。答えは香りの中に隠されたままだ。
ロレンゾには、香料を高濃度で味わう「レ・エッセンス」と、アルコールを用いたタイプの「レ・ブルーム」がある。今回のレビューは、レ・ブルームになる。
では、そんなロレンゾ、どんな香りだろうか?
ロレンゾを肌にのせる。それは、冒頭の庭園の門が開いた瞬間そのものだ。アルデヒドがパワーアンプのように花々の声を増幅し、そこへほろ苦いグレープフルーツの風が吹き抜ける。そこにミラベルのフルーティーが重なる。甘く瑞々しい酸味と、熟した果肉のコクが気分を高揚させる。
濃厚なのに、爽やか。圧倒的なのに、可憐。
まるで、花の数が際限なく増えてゆくような感覚を呼び覚ます。
やがて花々の歌声が次々に感じられる。ミドルで立ち上がるのは、マグノリアとイランイランの二重奏だ。高いところで白く濃厚に歌うマグノリア。その下では、低く熟れた黄色を響かせるイランイラン。特にロレンゾのイランイランは、バナナを思わせるクリーミーな肉厚さ、甘く官能的な質感を漂わせている。
そのさらに上を、ヴァイオレットリーフの青い気配がスッとよぎり、白と黄色の花に、薄い影を落としてゆく。光だけでは、ここまで美しくならない。影があるから、花はさらに艶を帯びる。
とても華やかで、きらめく花の様々な表情が感じられる美しいミドルだ。そんなミドルが1~2時間続く。
やがて庭園の光が、少しずつ暗くなっていくように、アンバーの気配が感じられてくる。樹脂を思わせる暗い甘さが、熟れたイランイランとゆっくり溶け合う。空気の湿度が上がる。じっとりと、しっとりと。さっきまで可憐だった花々が、いつしか妖しい艶を帯びていく。
次第に、心がとらわれていく。
気づけば、ロレンゾの庭園に迷い込んでいる。
振り返る。そこにも花が咲いている。ここは本当にどこなのだろう? 進むべき方角も、道もない美しい花園。視界が花に溶け、鼻の奥が花に溶け、やがて肌までもが、花の温度に重なってゆく。
花園の迷宮。
これほど濃厚な花々に囲まれているのに、ロレンゾの香りには不思議な冷たさがある。甘く、かぐわしく、それでいてスーッと鼻の奥へ抜けてゆく清涼感。
深く息を吸う。冷たい花の香気が身体の奥まで満ちてゆく。
もう一度。
もっと深く。
いつしか、貪るように花の香りを吸い込んでいる。
そして気づけば、出口を探すことをやめている。それだけが、確かだった。
もしも世界のどこかで、「LORENZO」そう刻まれた古い鉄の門扉を見つけたら。安易に、その門を開けてはいけない。
その庭園に足を踏み入れて、無事に帰ってきた者はいないからだ。
ただ、誰かが森へ消えた翌朝。昨日まではなかった、見たことのない花がひとつ。庭園の奥で、静かに咲いているという。
なぜ誰も帰らないのか。その花が何なのか。
その答えを知る者はいない。
甘く、冷たく、むせ返るほど美しい花の香りに包まれて、誰も知らない森の奥で、ロレンゾの庭は今日も、ただ静かに花を咲かせている。

天使のように残酷で、悪魔のように慈愛に満ちて。

6.8 / 7.0
HENRY JACQUES
LORENZO
LES CLASSIQUES
LES BRUMES / Eau de Parfum
レ・ブルーム/オードパルファン
Not officially disclosed
発売年:公式非公表
Aldehydes
Grapefruit
Mirabelle Plum
アルデヒド
グレープフルーツ
ミラベル
Madagascan Ylang-Ylang
Magnolia
Violet Leaf
マダガスカル産イランイラン
マグノリア
ヴァイオレットリーフ
Bourbon Vanilla
Amber
White Musk
バーボンバニラ
アンバー
ホワイトムスク
Not officially disclosed
調香師:公式非公表
冷たい花の影を追って。
陽光と官能を重ねて。
光と花にほどけて。

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